福岡県田川。
そこに岩村芳日軍(よしあき)氏という人がいる。
元高校の教師で、田川の町を何とか活性化させたいと心から願っていた。
そこに、以前日本フィルを聴いたことがあるという昔の仲間が戻ってきて話がはずんだ。日本フィルは1975年以来毎年九州公演を行っている。
それだ!と直感した岩村氏はすぐに日本フィルの事務所に駆けつけた。しかし田川は小さい町でホールも狭い。赤字が出れば福岡などの大都市に迷惑をかけるだけだ。と日本フィルには断られた。しかし、絶対迷惑はかけないと粘り強く交渉を続け、ついに1990年冬の九州公演に参加することになった。高教組などが一丸となって取り組み、成功させ、翌年、ヴァイオリンのソリストに諏訪内晶子を迎えたコンサートでは1500席のチケットを完売し、足りないほどだった。オーケストラだけでなく、日本フィルのメンバーによる室内楽のコンサートも周辺各地で企画し、私もピアニストとして何度も田川を訪れた。陽子も一緒によんでもらったこともある。
田川という町は昔、三井の炭鉱があり、石炭産業が盛んな時代は中央から様々な人が集まり、文化水準も高かった。今はすっかり小さな町になってしまったが、そういう素地は残っていてコンサートが根付くのにそれほど時間はかからなかった。もちろん岩村氏のもの凄い熱意があってのことだが、彼の頭の中では100年先の田川の町を考えて、今、どうしたら良いか細かく予定を組み立てるくらい構想は膨らんでいた。
しかし、2003年、彼は脳梗塞で倒れた。
マヒが残り、言葉も出なくなってしまった。それでも奥さんや仲間達が彼を支えて日本フィルの取り組みはその後10年も続いた。ソリストに園田高弘を迎え、県内ばかりでなく遠く鹿児島その他からもお客が集まり感動的なコンサートとなったこともあった。
今年2月、ついに最終回となる日本フィルの公演を終えた。
岩村氏は今でも言葉が不自由。
長末愛子さん。彼女は岩村氏の中学の先生だった。田川の隣町の糸田で、岩村氏との関係から日本フィルの室内楽の演奏会を取り組むようになった。しかし、年を重ねるうちに歩行も困難になってしまった。彼女は啓&啓倶楽部の潮風通信の愛読者で、いつか宏樹庵に来たいと願っていた。
日本フィルの最後のコンサートで彼女に会っている石井は、あの体で宏樹庵に来るのはとても無理だろうと言っていた。しかし、宏樹庵に行きたいという一心の願望でリハビリに励み、岩村氏の仲間に励まされて、ついに、9月7日、宏樹庵に来た。
岩村氏を含めた一行は20名でバスを借り切って田川からやって来た。
歩けないと聞いていた私は彼女が自分の力で階段を昇るのを見て大変感動した。
本当に来てくれたんだ!非常な努力で体を直して!
2階で小さなコンサートをした後、1階で宴会になった。
おでんその他の料理は私が用意した。ほろ酔い気分になった頃、皆で合唱したり、オカリナの演奏もあった。
9時過ぎに彼等はホテルに移動し、翌日は岩国市内をゆっくり観光して帰宅したそうだ。
生きていくことは非常な困難を伴うこともあるが、生きていてよかったと思える瞬間があり、すばらしいことだと思った。
そこに岩村芳日軍(よしあき)氏という人がいる。
元高校の教師で、田川の町を何とか活性化させたいと心から願っていた。
そこに、以前日本フィルを聴いたことがあるという昔の仲間が戻ってきて話がはずんだ。日本フィルは1975年以来毎年九州公演を行っている。
それだ!と直感した岩村氏はすぐに日本フィルの事務所に駆けつけた。しかし田川は小さい町でホールも狭い。赤字が出れば福岡などの大都市に迷惑をかけるだけだ。と日本フィルには断られた。しかし、絶対迷惑はかけないと粘り強く交渉を続け、ついに1990年冬の九州公演に参加することになった。高教組などが一丸となって取り組み、成功させ、翌年、ヴァイオリンのソリストに諏訪内晶子を迎えたコンサートでは1500席のチケットを完売し、足りないほどだった。オーケストラだけでなく、日本フィルのメンバーによる室内楽のコンサートも周辺各地で企画し、私もピアニストとして何度も田川を訪れた。陽子も一緒によんでもらったこともある。
田川という町は昔、三井の炭鉱があり、石炭産業が盛んな時代は中央から様々な人が集まり、文化水準も高かった。今はすっかり小さな町になってしまったが、そういう素地は残っていてコンサートが根付くのにそれほど時間はかからなかった。もちろん岩村氏のもの凄い熱意があってのことだが、彼の頭の中では100年先の田川の町を考えて、今、どうしたら良いか細かく予定を組み立てるくらい構想は膨らんでいた。
しかし、2003年、彼は脳梗塞で倒れた。
マヒが残り、言葉も出なくなってしまった。それでも奥さんや仲間達が彼を支えて日本フィルの取り組みはその後10年も続いた。ソリストに園田高弘を迎え、県内ばかりでなく遠く鹿児島その他からもお客が集まり感動的なコンサートとなったこともあった。
今年2月、ついに最終回となる日本フィルの公演を終えた。
岩村氏は今でも言葉が不自由。
長末愛子さん。彼女は岩村氏の中学の先生だった。田川の隣町の糸田で、岩村氏との関係から日本フィルの室内楽の演奏会を取り組むようになった。しかし、年を重ねるうちに歩行も困難になってしまった。彼女は啓&啓倶楽部の潮風通信の愛読者で、いつか宏樹庵に来たいと願っていた。
日本フィルの最後のコンサートで彼女に会っている石井は、あの体で宏樹庵に来るのはとても無理だろうと言っていた。しかし、宏樹庵に行きたいという一心の願望でリハビリに励み、岩村氏の仲間に励まされて、ついに、9月7日、宏樹庵に来た。
岩村氏を含めた一行は20名でバスを借り切って田川からやって来た。
歩けないと聞いていた私は彼女が自分の力で階段を昇るのを見て大変感動した。
本当に来てくれたんだ!非常な努力で体を直して!
2階で小さなコンサートをした後、1階で宴会になった。
おでんその他の料理は私が用意した。ほろ酔い気分になった頃、皆で合唱したり、オカリナの演奏もあった。
9時過ぎに彼等はホテルに移動し、翌日は岩国市内をゆっくり観光して帰宅したそうだ。
生きていくことは非常な困難を伴うこともあるが、生きていてよかったと思える瞬間があり、すばらしいことだと思った。
ヴァイオリンの伴奏も入って歌声が響く。
左の方で指揮をしているのは82歳のH氏
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