宏樹庵にいるときにはニンニクや玉ねぎの植え付けもやりながら個人練習です。
プログラムの原稿も書けました。
こちらに載せておきます。
演奏会にいらっしゃれる人もいらっしゃれない人も読んで音楽を思い浮かべていただけたらと思います。
4つの前奏曲より第1番
ショスタコーヴィチ(1906~1975)
ショスタコーヴィチは1906年サンクトペテルブルクに生まれた。
9歳の時初めて母親にピアノの手ほどきを受け、1919年13歳でペテルブルグ音楽院に入学、グラズノフに師事する。1925年音楽院を卒業、卒業制作として交響曲第1番を作曲。作曲だけでなくピアノも堪能でこの後ショパンコンクールにも出場している。作曲家同盟レニングラード支部の運営委員になり次第に作曲家としての礎を築く。しかし、時はスターリン時代。政治のみならず芸術その他あらゆる分野で制約があり、体制からの批判を受けながらも作曲を続ける。主に交響曲(全15曲)や弦楽四重奏曲(全15曲)において優れた作品を残し、それに比べてピアノソナタは2曲しか書いていない。重く暗い作品、或いは反対に故意に大きな音の連続のある作品が多いが、一方でポピュラー音楽も愛し、軽妙な作品も少なからずある。
この前奏曲もその一つで、1933年にピアノのために書かれた24の前奏曲のうち4曲を後にツィガーノフがヴァイオリンとピアノのための曲に編曲した、非常に幻想的な曲だ。
フルートとピアノのためのソナタ
プロコフィエフ(1891~1953)
プロコフィエフはショスタコーヴィチより15歳年上、ロシアのウクライナ地方南部に生まれた。5歳の時もう作曲を始め、9歳でオペラ2曲、12歳でヴァイオリンソナタを書くなど天才的頭角を現す。1904年母に連れられてペテルブルグのグラズノフを訪問、そして音楽院に入学(ショスタコーヴィチが入学する15年前である)リャードフの和声学クラスで学び、後にリムスキーコルサコフのクラスでも学ぶ。次々にオペラや交響曲を作曲し発表する。1914年(23歳)でピアノ科と指揮科修了、卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲を弾きアントン・ルビンシュタイン賞受賞。その年ロンドンでディアギレフに会い、称賛されていろいろ作曲の提案を受ける。
1917年にロシア革命が起きる。ロシアの帝政が崩壊しレーニン率いるポリシェビキが台頭してきて第1次世界大戦からは手を引き、社会主義国家ソ連を形作ってゆく。この内戦は数年続き、死傷者は700~1200万人に上ると言われている。(1922年ソビエト社会主義共和国連邦が誕生)
プロコフィエフはそのような状況の中でアメリカ亡命を決心、1918年シベリア鉄道で日本を経由してアメリカに行く。日本には6月から8月までの約2か月間滞在し演奏会も開いている。その後アメリカを拠点として作曲家、ピアニストとして活躍。しかし15年経た1933年望郷の念が高まり帰国。ショスタコーヴィチはずっとソ連にとどまっていたがプロコフィエフは15年間であっても亡命し欧米で活躍していた。この差が二人の作風の違いにつながりそうだ。そしてプロコフィエフが亡くなる1953年にスターリンも亡くなり、以後ショスタコーヴィチの今まで発表できなかった作品にも光が当たるようになる。
1941年第2次世界大戦が勃発。ドイツ軍のレニングラード(=現ペテルブルグ)進撃により他の芸術家とともにプロコフィエフはグルジア地方に疎開。戦争ソナタと呼ばれるピアノソナタ第6番第7番を書く。フルートソナタも戦争のさ中1943年に作曲されている。この初演を聴いたオイストラフがヴァイオリンソナタへの改作を依頼、翌1944年にヴァイオリンソナタ第2番として発表、ピアノパートはそのままでフルートパートに少し手直しがしてあるだけだが、こちらも現在よく演奏される。
第1楽章 物憂い雰囲気で始まるソナタ形式
第2楽章 軽快なスケルツォ
第3楽章 抒情的で美しい
第4楽章 躍動感あふれる楽章
ピアノ三重奏曲 ショスタコーヴィチ
ショスタコーヴィチが1927年に出会って以来、公私ともに親しかった音楽演劇評論家ソレルチンスキーが1942年に急逝した事を受けてこの曲は書かれ、「ソレルチンスキーの思い出」というタイトルが付けられている。
世界大戦中の1944年に書き上げられている。親友の死、また大戦中のスターリン体制のもとでの作曲家という自分の立場をユダヤ人と重ね合わせ、曲全体が深い悲しみに覆われている。ショスタコーヴィチの友人にはユダヤ人が多かったし、オーケストラの団員の中にもユダヤ人がいた。彼らとの接触の中でショスタコーヴィチはユダヤ音楽へ傾倒していったと言われている。ユダヤの音楽—空騒ぎの中で、泣かざるを得ない怒り—
第1楽章 チェロのハーモニクス(笛のようなとても高い音)という「超」超絶技巧の旋律で始まる。こんな冒頭を考え付くとは!!! 正に深い悲しみである
第2楽章 スケルツォ
第3楽章 ブラームスの交響曲第4番終楽章の冒頭のようにパッサカリアの8小節の和音進行をピアノが受け持ち、チェロとヴァイオリンの哀惜あふれる二重奏をずっとピアノが支え続ける
第4楽章 第3楽章から切れ目なしに演奏される。ピアノの連打に乗って墓場の遺骨の上をさまよう男の旋律。そしてその先に現れるのが弦楽四重奏曲第8番でもそっくりそのままの旋律が使われているユダヤの歌。弦楽四重奏曲の楽譜には「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に捧ぐ」と書かれている。5拍子でこれでもかこれでもかと歌われる旋律もユダヤの音楽だろう。そして8小節の和声進行を挟んで墓場の男の旋律で曲を閉じる
ピアノ三重奏曲「大公」
ベートーヴェン(1770~1827)
1789年フランス革命が起き絶対王政が崩れるのだが、ナポレオンが台頭し、当初は外国の干渉から市民階級を守る革命防衛戦争だったのに次第に侵略戦争と化してヨーローッパ中が巻き込まれる。それまで芸術家を保護していた貴族は力を失い、兵士も傭兵ではなく愛国心に満ちた国民兵に取って代わる。ベートーヴェンの活躍する頃は貴族からの年金は無くなり、作曲家は自身で演奏会を開いたり楽譜を出版社に売ったりして生計を立てるようになる。ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ1815年に敗退するまで戦争は続いた。
そんな中1811年にこのピアノ三重奏曲は書かれた。既にベートーヴェンは6曲の交響曲とすべての協奏曲を書き終え最も円熟した時期だった。ルドルフ大公に捧げられているのでこの曲は「大公」と呼ばれる。ルドルフ大公は18歳ベートーヴェンより年下でベートーヴェンの弟子でもあり、貴族からの年金が無くなる時期であったにもかかわらず早世するまでベートーヴェンを援助し続けた。神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世の末っ子で1806年に神聖ローマ帝国は消滅するがオーストリア皇子(大公)の称号を持ち、ピアノも達者でベートーヴェンのヴァイオリンソナタ10番の初演も行っている。
第1楽章 ピアノの堂々とした主題で始まりすぐヴァイオリンが引き継ぐ
第2楽章 スケルツォ形式 3つの楽器の掛け合いが絶妙
第3楽章 アンダンテ カンタービレ 主題と4つの変奏曲
第4楽章 ロンド形式 3楽章が静かに終わった後、いきなり楽しく活気に満ちた旋律が始まる
全体に幸福感にあふれており、どうしてこんなにも幸福だったのだろうかと考えさせられる。戦争のさ中であり、この曲の初演では自身がピアノを弾いたがこの頃は音楽家として大切な耳がもうほとんど聞こえなくてあまり上手く行かなかったようだ。
それなのにこの幸福感!!?
初めのショスタコーヴィチの前奏曲とプロコフィエフのソナタを陽子と、ショスタコーヴィチのトリオを石突美奈さん、桜庭茂樹さんと、最後の「大公」を石井啓一郎、桜庭茂樹さんと演奏します。
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