亡くなる年の3月、彼女は一人の書家の友達と一緒にフィンランドで書の展覧会を開いた。
彼女はもともと日本女子大の食物学科を卒業して、イタリア料理の専門家として日本のイタリアレストランのシェフなどと一緒にいろいろなメニューを研究していた。手書きのたくさんのレシピが残されている。
しかし、母親の影響もあって書も師匠について精進していた。
母はかな部門だが、彼女の師匠は近代詩文という部門で、見る人に分かり易い文字で詩や短歌などを書いていた。また、彼女は銀座に教室を開いて大人を対象に自由に、自分の思ったこと、感じたこと、書きたいことを書かせていた。彼女の「うふっ」と書いた色紙は私も好きだ。そんな、何か既存の書道界を抜けたところに彼女は自分の存在を求めていたようだった。
プラハでの書の展覧会が好評だったので、それから3年くらい経っていただろうか、私に、またどこか海外で展覧会を開きたいのだけどと相談があった。私は指揮者の渡邉暁雄先生とのつながりで日本フィンランド協会に所属しており、フィンランドにも知人がいた。その知人に打診したところとんとん拍子に事が進み、フィンランドの首都ヘルシンキの郊外のエスポーという所で2013年3月に展覧会を開くことが決まった。
会場はとても広く立派な所で、たくさんの来場者もあり、またワークショップも好評だった。大成功で帰国した後、関係者から私にまで感謝の言葉が多く寄せられた。
それなのに、どうも変と言うので病院に行かせたのが4月13日。結果は食道がん余命半年!!!
信じられなかった。余命半年と言っても何もしなければ半年で、これから治療をすればもっともっと生きられると簡単に思っていた。彼女も努力した。しかし、食道がんはリンパに転移し、腎臓もやられた。投与する薬がなかった。でも入院中も彼女はパジャマなど着ないで明るい洋服を着てミーティングルームで見舞客と楽しそうにおしゃべりし、看護婦さんは俳優さんだと思ったそうだ。退院した時には旅行にも行っている。
しかしだんだんどうしようもなくなって病院に緩和ケアを勧められた時、彼女は癌を一点だけに絞って放射線を当てるという治療方法の鹿児島の病院を選んだ。その選択は良かったのかもしれない。彼女は最後まで自分の口から物を食べることが出来た。
しかし、終わりは近づいて鹿児島から飛行機で東京に彼女を運び、その2日後に彼女は息を引き取った。
東京に帰れて本当に良かった。
今日お墓にお参りした。
空が抜けるように青かった。
エスポーのカルチャセンター
フィンランドには日本びいきの人が多い
ワークショップも大好評、みんな上手に墨で書けました。
妹とその友達