2月15日(日)13時半より岩国市のお隣、和木町の文化会館にてローズオーケストラの第2回定期演奏会が開かれた。
昨年結成されたばかりの、まだ生まれて間もなく、目も見えていなくて太陽がどこにあるかも分からないようなオーケストラ。チェロの団員にはなっているけれどパートの全部は弾けなくて自分の弾けるところだけ弾くという人もいる。ヴァイオリンやヴィオラの人も数えるくらいしかいいない。昨年は神戸で活動しているヴィオラを弾く方がとりあえず指揮棒を握って下さったが、その終演後、まとめ役の森脇さんにどうしても石井に指揮をお願いしたいと懇願された。
東京のアマチュアオーケストラにはヴァイオリンをかかえてたびたび指導に行ったことはある。このオーケストラの第1回の演奏会の前にも2度程指導に行った。しかし、指揮をすることは全く考えていなかった。東京音大の指揮科の助手を務めてはいるが自分自身が指揮をしたことは一度もない。むしろ敬遠していた。絶対に指揮はしたくないと頑なに言っていた。
しかし、どうしてもと熱く言われて、もともと岩国に住むようになってから山口県下オーケストラがあるのは西に偏っているので東にも出来たらいいなとは思っていたこともあって、じゃあ地元のためにちょっと頑張ってみようかと重い腰を上げた。
アマチュアなので月一回の練習に秋から付き合って数回。そして15日を迎えた。
プログラムの第1部は吹奏楽の曲を3曲、これはトロンボーンの人が指揮をした。第2部、ハイドンの交響曲「軍隊」から始まって、ラヴェルのボレロ、そしてアルルの女のファランドールで締める。
ハイドンはとても優しい音で、特に2楽章の流れが良かった。ボレロのだんだん盛り上がっていく音楽やファランドールの華やかな響きをお客さんもとても楽しんで下さったようだった。アメリカ人も混じっているからか拍手と共にフィーッ!というような声も上がって盛り上がっていた。
初めての指揮。石井啓一郎のオーラでよくみんなをまとめ、高揚させていったと感慨深い。
もう来年の約束もしたようだった。


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1月15日(木)19時より東京文化会館小ホールにて石井啓子アンサンブルシリーズが開催された。
35回目。
プログラムはトゥリーナの幻想曲「環」に始まってショーソンのピアノ三重奏曲、後半スークのエレジー、そしてフランクのヴァイオリンとピアノのためのソナタをフルートでというフランク楽派の3曲の間にスークが入る形で、3曲とも循環形式が用いられ、初めに現れた旋律が後の楽章にも使われて全体が統一されている。トゥリーナの「環」はあまり演奏される機会がないが、夜明け、昼たけなわ、そして陽が沈んで最初の静けさに戻る情景を思い浮かべながら演奏した。イメージの乗せやすい曲だった。ショーソンは昨年の夏ごろから譜読みを始めたのに、とてもたくさんの音の半音階的な並びのパッセージはなかなか弾けるようにならなかった。12月になってやっと指も音を覚え、流れが出来てきた。買ったCDはピアノの音ばかり大きく録音されていて弦楽器の旋律が全然聴こえなかった。このピアニストはずいぶんと乱暴だと思うほどだった。本番は石突美奈さんのヴァイオリンなのだが、石井がだいぶ付き合ってくれて助かった。本番が一番ショーソンらしい美しい音で弾けたかなと思う。スークではヴァイオリンのスラヴ的な歌いまわしが良かった。そして最後の陽子との親子共演。フランクは石井とは何回か弾いたことがあったが、フルートの陽子ワールドはそれとはまったく違い、息遣いも気にしなくてはならず、思っていたより大変だった。でも演奏し終わった時の拍手は大きくてなかなか止まなかった。
お客さんは300弱。35回も続けていると初めの頃は元気で知り合いにもたくさん声をかけてくれていた人も、血圧が高いとか透析をやっているとか、いろいろな障害が出てきて演奏会には来れなくなった。新しいお客さんを開拓するのもなかなか難しい。でも陽子のためにもう少しこの演奏会を続けようかと思う。
応援団集まれーっ!!!


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陽子の応援団に囲まれて。

10月26日は妹が亡くなった日。
私と7つ違いの妹は日本女子大食物学科を卒業し日清製粉に入社してあちこちの有名なレストランのシェフともつながり、仕事は人一倍できる人だった。実家の近くに家を借りてお料理教室を開いたり、仲間をたくさん招いてパーティを開いたり、精力的に活動していた。母が書道の重鎮だった関係で書もやっていて、銀座に大人の書道教室も持っていた。とにかく人の何倍もの仕事をこなしていた。
自分の身体の異常に気が付いたのは2012年春。食べても何かつっかえると言う。強制的に診断を受けさせたら、食道癌から全身に癌が転移していて余命6か月と宣告された!
それからも妹は病院で寝間着など着ずに、平服でいろいろな人に会い、自分でもどうしたら生き延びられるかいろいろ調べて、鹿児島の病院で特別な治療をしている先生と出会った。8月に鹿児島の病院に行った。ピンポイントの治療で食道の癌は小さくなり、食べ物はずっと口から食べられた。しかし体中がむしばまれているのだから体力は落ち、ある時突然立てなくなった。それでも妹はまだ治療を受けると言っていたが、もう限界と私は感じて、東京行きの飛行機の手配をした。
もう立てないので寝たきり。飛行機に乗せるのも無理があったが、東京に帰したいという私の切羽詰まった思いで乗せて帰った。
東京女子医大は羽田からの救急車の要請に何とか対応してくれて受け入れてくれた。東京に帰って来てまだ意識はあった。母にごめんなさいと言っていた。2日後に亡くなった。よく帰って来れたとしみじみ思う。
10月19日中井ですぐ下の妹夫婦と陽子達とで十三回忌の法要を執り行った。
今頃は大好きだった父とのびのびとお空の上で楽しんでいることと思う。

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晴香たちと。

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