カテゴリ: 宏樹庵便り

12月25日東京文化会館で開かれた石井啓子アンサンブルシリーズが終わった。
クリスマス当日だったのでどの位お客様が来て下さるか心配だったが、結局350人余りの入場者で客席はいっぱいに見えた。プログラムはスーク エレジー、マルティヌー  フルートソナタ第1番、ブラームス トリオ作品101、ドヴォルザーク トリオ「ドゥムキー」。肩の力が抜けない曲が続く。

初めての練習は11月6日。マルティヌー は今回初めて挑戦する曲だった。 複雑なリズムでフルートだけで吹いていると何という事も無い部分でもピアノパートは後打ちだったり、16分音符分ずれていたり、拍子が違ったり、、、。ブラームスやドゥムキーは以前アンサンブルシリーズで取り組んだ事のある曲だったにもかかわらず、全く初めての曲のようにお互いのパートのやり取りが難しかった。譜面を一から読み直してみると全く今まで気が付かなかった事がたくさんあった。前は何を考えて弾いていたのかと思う程だった。演奏会前日になってハッと気が付いた箇所さえあった。当日の会場練習でようやく何とか満足のいくような形となって本番を迎えた。

美しいメロディのスークで幕を開け、マルティヌー は陽子はいつもの暗譜で臨む。独特の人を引き寄せる演奏で陽子ワールドが拡がった。ブラームスもドゥムキーもチェロに大いに助けられた。1曲目のアンコール ユーモレスクが終わって最後の締めはクロンケの蝶々。何か蝶々のリボンでも付けて演奏しようかとみんなで相談したところ結局、磁石の付いた色々な色、大きさの蝶々を譜面台にくっ付ける事になった。演奏するのは若い女性二人と私なので舞台が見違える程パッと華やかになったそうだ。ふわりふわりと蝶々が舞うような演奏が終わると珍しく「ブラボー!」の声が上がった。

今回アンサンブルシリーズは29回目。来年は30回となる。桜庭さんと組んでからは5回目。 本当に素晴らしいチェロの音色に包まれて私は幸せだ。
もう少しだけ続けようと思う。 

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ロビーでは宏二郎の絵葉書の販売も。晴香たちお手伝い。
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終演後のご挨拶 

11月26日(月)山口県庁へ赴いた。

今日は山口県文化功労賞の授賞式。
どなたが推薦して下さったのか、全く知らないうちにこういう事になってしまった。
ミュージックキャンプは来年で20回目。初期に参加していた人はもう立派な大人になった。お蔭さまで大変好評で盛況な会となっている。離島や里山での演奏会が評価されたのか、それとも中学校や小学校での演奏会が評価されたのか・・・
今回の受賞者は7人で石井のほかには、お花の先生、画家、舞踏家、演劇の文化団体の人、琴の先生、詩吟の人。この賞は山口県の文化の発展に資するために平成8年度に創設されたもので、文化の振興に顕著な功績があった人を受賞の対象とすると書いてある。本年度までの受賞者総数は個人159人、団体21団体、計180件。20年以上にもなるとずいぶんたくさんの人たちの功績が讃えられているものだ。文化面でもたくさんの方々が頑張っていらっしゃると思うとうれしい。

これからも音楽を通して「ああ、良かった!」と思える時間をいろいろな人と共有していきたい。
授賞式 澄川氏の作品
県庁の玄関前にある澄川氏の作品
授賞式 本番前
授賞式本番前、新聞記者たちがいろいろと取材にやって来た。
授賞式 県知事から表彰状を
知事から表彰状を手渡される
授賞式 パネルを見て
受賞した後、パネルを見て知事さんたちに説明

授賞式 ほかの受賞者の方々と
他の受賞者の方々と。





明日、上京して明後日6日からアンサンブルシリーズの練習が始まる。
6日が初めてのドゥムキーの合わせ。もう11月に入っているのに初めてとは、私にとっては遅いスタートだが中身の濃い練習になりますように。ブラームスとマルティヌーも2回ずつ練習していったん帰宅する。
プログラムノートも書き始めた。

ブラームスはドヴォルザークより8歳年上だった。

1833年にドイツのハンブルグで生まれ、父親は市民劇場のコントラバス奏者だった。7歳でピアノを習い始めると上達が早く10歳でステージに上がるほどだった。しかし家が貧しかったのでレストランや居酒屋でピアノを弾き家計を支えなければならなかった。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、ジプシー音楽を吸収したことが創作活動に大きな影響を与えた。二人でヨーゼフ・ヨアヒムに会いに行き、ヨアヒムはブラームスの才能を称賛、ロベルト・シューマンを紹介してくれる。このシューマンとの出会いはブラームスが世に出る決定的な出来事だった。シューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け、「新音楽時報」に劇的な賛辞を載せてその後もブラームスの作品を広めるために重要な役割を果たした。1862年からウィーンに落ち着いたブラームスは作曲に集中し、「ドイツ・レクイエム」「交響曲第1番」「交響曲第2番」などを次々と完成させた。

ドヴォルザークは1841年にプラハの北のネラホゼヴェスに生まれた。家は肉屋と宿屋を営んでいた。6歳の時小学校の校長にヴァイオリンの手ほどきを受け、見る間に上達し、父の宿屋などで演奏するようになるが、肉屋を継がせたかった父親はズロニーチェという町に勉強に行かせる。肉屋の技術習得書を得るためには専門学校でドイツ語を習得する必要があったのだが、この専門学校のドイツ語の先生が教会のオルガニストや楽団の指揮者も務めている人で、ドヴォルザークにヴァイオリンなどの演奏だけでなく和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。そして相変わらず家業を継がせるつもりの父親を先生が説得してドヴォルザークは1857年にプラハのオルガン学校にやっと入学することができた。卒業後、彼はヴィオラ奏者としてオーケストラに所属していた。在学中から作曲もしていたようだが、初めはワーグナーの影響も見られた。1871年に、作曲に多くの時間を充てるためオーケストラを辞め個人レッスン、やがては教会のオルガン奏者として生計を立てた。1874年にオーストリア政府の国家奨学金の審査で交響曲第3番や第4番などが認められ、それまでのオルガン奏者としての給料の何倍もの高額な年収を得ることができた。この国家奨学金と言うのは、1863年に出来た若くて貧しい画家、彫刻家、音楽家たちのための奨学金で、ハプスブルグ家の豊かさを象徴するものだった。その頃チェコはオーストリアの一部だったのでドヴォルザークにも受ける資格があった。奨学金は年ごとに審査を受けるものだが、彼は結局、次々と曲を完成し、5年間奨学金を受け取ることが出来た。1877年に審査に出した「モラヴィア二重唱曲集」がブラームスの目にとまり、ブラームスは出版社ジムロックにドヴォルザークを紹介し、ブラームスとドヴォルザークはお互いの家を訪問するなど親しい交際が始まった。町中で育って有名になったブラームスは、地方生まれのほとんど無名に近い年下のチェコ人に何かいじらしい好意抱いていたのかもしれない。ドヴォルザークはブラームスの作品を注意深く研究することで主題の取り扱いやリズムを一層個性化し、より内面的な構想などを発展させていった。民族的な色彩の濃い弦楽四重奏曲作品34をブラームスに献呈している。ジムロックは1878年にブラームスのピアノ連弾のための「ハンガリー舞曲集」に匹敵するような「スラヴ舞曲集」の作曲を依頼。この依頼に応えて作曲された曲集は絶賛され、ドヴォルザークの名前はヨーロッパ中に広く知れ渡った。ブラームスはドヴォルザークにウィーン移住を勧めたが、彼は迷った末、チェコにとどまる事にした。彼には田舎の空気が必要だった。

スークはプラハ音楽院でドヴォルザークに学んでいる。卒業後、同級生と共にボヘミア四重奏団を結成して第2ヴァイオリンを弾いていた。1922年からは母校プラハ音楽院で教鞭を執りボフスラフ・マルティヌーらを指導した。初期の作品にはドヴォルザークやブラームスの影響が多く見られる。



12月25日(火)午後7時開演 東京文化会館小ホールへ是非お運び下さい。
曲はスークのエレジーに始まり、マルティヌーの1番のフルートソナタ、ブラームスのピアノ三重奏曲作品101、ドヴォルザークのピアノ三重奏曲「ドゥムキー」です。

アンサンブルシリーズ2018表


10月26日妹の命日。亡くなって5年が経った。享年56歳。

亡くなる年の3月、彼女は一人の書家の友達と一緒にフィンランドで書の展覧会を開いた。
彼女はもともと日本女子大の食物学科を卒業して、イタリア料理の専門家として日本のイタリアレストランのシェフなどと一緒にいろいろなメニューを研究していた。手書きのたくさんのレシピが残されている。
しかし、母親の影響もあって書も師匠について精進していた。
母はかな部門だが、彼女の師匠は近代詩文という部門で、見る人に分かり易い文字で詩や短歌などを書いていた。また、彼女は銀座に教室を開いて大人を対象に自由に、自分の思ったこと、感じたこと、書きたいことを書かせていた。彼女の「うふっ」と書いた色紙は私も好きだ。そんな、何か既存の書道界を抜けたところに彼女は自分の存在を求めていたようだった。
プラハでの書の展覧会が好評だったので、それから3年くらい経っていただろうか、私に、またどこか海外で展覧会を開きたいのだけどと相談があった。私は指揮者の渡邉暁雄先生とのつながりで日本フィンランド協会に所属しており、フィンランドにも知人がいた。その知人に打診したところとんとん拍子に事が進み、フィンランドの首都ヘルシンキの郊外のエスポーという所で2013年3月に展覧会を開くことが決まった。
会場はとても広く立派な所で、たくさんの来場者もあり、またワークショップも好評だった。大成功で帰国した後、関係者から私にまで感謝の言葉が多く寄せられた。

それなのに、どうも変と言うので病院に行かせたのが4月13日。結果は食道がん余命半年!!!
信じられなかった。余命半年と言っても何もしなければ半年で、これから治療をすればもっともっと生きられると簡単に思っていた。彼女も努力した。しかし、食道がんはリンパに転移し、腎臓もやられた。投与する薬がなかった。でも入院中も彼女はパジャマなど着ないで明るい洋服を着てミーティングルームで見舞客と楽しそうにおしゃべりし、看護婦さんは俳優さんだと思ったそうだ。退院した時には旅行にも行っている。
しかしだんだんどうしようもなくなって病院に緩和ケアを勧められた時、彼女は癌を一点だけに絞って放射線を当てるという治療方法の鹿児島の病院を選んだ。その選択は良かったのかもしれない。彼女は最後まで自分の口から物を食べることが出来た。
しかし、終わりは近づいて鹿児島から飛行機で東京に彼女を運び、その2日後に彼女は息を引き取った。
東京に帰れて本当に良かった。

今日お墓にお参りした。
空が抜けるように青かった。

お墓参り2018
路子フィンランド展2
エスポーのカルチャセンター
路子フィンランド展3
フィンランドには日本びいきの人が多い
路子フィンランド展4
路子フィンランド展5
ワークショップも大好評、みんな上手に墨で書けました。
路子フィンランド展1
妹とその友達








岩国西ロータリークラブが主催して始めたがん予防教育と音楽公演。2016年には岩国中学校と麻里布中学校、2017年には東中学校と川下中学校、そして今年は10月23日に平田中学校と灘中学校を訪問した。
どちらの中学校も宏樹庵から近い地域にあり、車でよく通っている道を今日は仕事をしに通るということに少し違和感を感じながら朝9時半に平田中学校に到着した。
今回のプログラムにはフランクのソナタを入れたので自分では譜面がめくれず音楽の先生に譜めくりをお願いした。初めてなので、ピアノの調子を見るとともに、その先生と譜めくりの練習もかねて始まる前に少しだけ練習した。
初めの30分はがん予防の話、ロータリークラブの会員の方がお話しされた。そしてその後、石井啓一郎啓子ヴァイオリンリサイタルが始まる。
ドビュッシーの小舟にて、フランクのソナタより第1楽章と第4楽章、同じくドビュッシーのゴリウォークのケークウォーク、ファリャのスペイン舞曲、サンサーンスのハバネラそしてチゴイネルワイゼンというプログラムだった。
300人余りの生徒たちと多くの先生方、それに地域の方もちらほらいらしていた。みんな緊張していたのか、すごく静かに聞いてくれた。もう少しリラックスしてもいいのにと思うほどだった。でも帰りがけに会った生徒は「良かった!」と言ってくれたので少し安心した。
午後は灘中学校にて1時半から。この中学校は石井の朝の散歩道にあり、生徒たちはすれ違うと必ず挨拶する。後ろから来てもわざわざ挨拶する気持ちのいい生徒たちだ。廊下には生徒たちが活けた花があちこちにあり、華道も誰か教えているような雰囲気だ。
ここでも午前中と同じプログラムを演奏した。ここの生徒の方が少し柔らかい感じがした。最後の生徒代表で挨拶した女の子も「一番心に残ったのはフランクのソナタで、ヴァイオリンとピアノの掛け合いがとても迫力があり良かったです。」と、ちゃんと聴いていたんだなと思えるような挨拶だった。
生徒たちはクラシックの音楽はCDやテレビなどでしか聴いたことがなくて、目の前で演奏家が演奏しているのを見るのは初めてだった。普段は演奏会に行く余裕はないのだろう。でも生の演奏はやはりCDとは違うことに気が付いたと思う。こういう体験が心の隅にいつまでも生き続けてくれたらと願う。
平田中学校で
平田中学校にて

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