カテゴリ: 宏樹庵便り

2020浜田6
日本海の幸をたっぷり頂きました。

2月24日久し振りの休日。今回は日本海側の浜田に行った。
朝9時半過ぎに宏樹庵を出て大竹から高速に乗り、山陽道、中国道を乗り継いで浜田道で浜田へ。ちょうど12時頃ゆうひパーク浜田に着いた。漁港などを見下ろす高台にあるこの施設。石州和紙などのお土産も置いてあり、葉書を買った。空は快晴。海が碧かった。
そこから更に西のゆうひパーク三隅へ。その道すがら見える日本海はやはり瀬戸内海とは全く違った海で音からして違う。瀬戸内海は海の音がしない。たまに風の大変強い日には珍しく白波が立つこともあるが音は全くしない。いつも静かで鏡のような海、それが瀬戸内海。日が昇る時も月が昇る時も海に映って美しい。ゆうひパーク三隅のすぐ下に山陰本線が走っている。本線と言えど単線。1時間に往復で2本か3本走るのみ。見ている時に運よく列車が来た。1両編成の宇部線のような車両で乗っている人も少なそうだった。
石見海浜公園にも行ってみた。ここは県立公園だけあって大変広く、夏は賑やかなんだろうなと思われるが、今の季節は砂丘のような広い砂浜に人はほとんどいなかった。いろいろ流れ着いたものがあって宏二郎のお土産に拾って帰った。
日本海を満喫した後、近くの美又温泉に行ってぬめぬめしたお湯と日本海の幸は日頃の忙しさを忘れさせてくれた。
お天気に恵まれほんとに良い旅だった。

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海岸線を走る山陰本線

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ちょうど列車が来た

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砂丘のような砂浜

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ぬか漬けを始めた。
岩国には江戸時代から続いていた醤油造りがあって昭和30年代にそれを止めて漬物やさんになった「うまもん」が ある。そこに3年前その家の孫娘がUターンしてきて家を継いだ。それが中野百合子さん。若い彼女はピチピチとしたとても楽しいパワーを持った女性で新製品の開発や発酵食品の普及に、新しい独自のアイディアを入れながら、今まで勘だけに頼っていた所をちゃんと数値に出せる工夫もしながら、いろいろな所に出て行って力を発揮している。
「うまもん」では何回かぬか床作りの講習会も開いていた。1月22日初めて私も参加してみた。 その日の受講者は9人。東広島や呉などから2 時間弱かけて来た人もいた。同じ岩国の酒造「五橋」の酒米に使われている無農薬の米から採れる糠に井戸水と胡瓜をすり下ろしたものと唐辛子、昆布を混ぜてぬか床を作った。それから「うまもん」の築170 年の家の奥の部屋でこれからのぬか床の管理やぬか漬けの歴史などの講義があった。中野さんは菌は生きている。それを大切に育てるにはやはり農薬などに侵されていない野菜を使いたい。そういう農家との付き合いが始まり、菌を大切に思う人達の輪が拡がり、そうやって発酵食品の文化が拡がって行くと思うと話していた。
「うまもん」で作ったぬか床を家に持って帰り、まずはじっと見守る。20度位が適温との事で薪ストーブの部屋に置く。待つ事4日。言われていたように表面が白い膜に覆われた。1月26日糠を混ぜ、空気を入れてもう一度寝かせる。今度は前より早く膜が張ってきた。29日もう一度混ぜてその晩人参と大根を入れた。翌朝セロリ、二十日大根、胡瓜を入れた。胡瓜以外は全部畑から採って来たもの。そしてその晩、初めて食べてみた。野菜の元々の味がしっかり残っていて美味しかった。特に人参は美味しかった。いくらでも食べられるという感じ。大根は朝漬けたのでも良かったのかもしれない。 
次は何を漬けようかな。楽しみが増えた。 

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うまもんの店構え
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中野百合子さんのアイディアも光る

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初めての作品
 

12月12日ミュージックキャンプ20周年誌が印刷所から送られて来て今までの参加者に郵送した。
1999年に宏樹庵が出来て翌年、東京で1984年から続けていた石井と私の生徒達を中心とした室内楽の発表会を岩国でもやってみようかと思い立った。生徒の中で岩国まで来れる人、秀太郎のジュニアフィル時代の友達、萩の友人の生徒たち、それに新聞で募集した岩国の人、計15人で2日間レッスンを受けて最終日に発表する「ミュージックキャンプ」が始まった。場所は由宇町の銭壺山山頂にある山口県の施設「ふれあいパーク」 眼下に瀬戸内海の島々が拡がり、200人収容のホール、音楽室、交歓室などいろいろ整った施設だ。
2011年からは発表会の会場が由宇文化会館に移り、レッスン会場も黒磯自治会館になったので主に皆が集う場所は宏樹庵となった。20年前に参加していたお姉さん達はほとんど結婚してお母さんになった。そのお姉さん達が今度は自分の子供達に室内楽の楽しさを体験させようと取り組んだのが先日11月24日に開かれた「散歩がてらのコンサートin 東京」だった。それは大変好評だった。
この20周年誌は全69ページの中に20回分のプログラムと、参加者、聴きに来て下さった方、いつも朝食を用意して下さっている方のコメント、石井と桜庭氏と私のメッセージ、それにたくさんの素敵な写真が載っている。秀太郎がレイアウトをとても一生懸命練ってくれて見応えのある本に仕上がった。送られてきた記念誌を見て、たくさんの人から、懐かしい! あの時あんな曲を弾いてたんだ! 自分たちは3年しか参加できなかったけど子供があんなに生き生きとしていたのはあの時が最高でした! など多くの声が寄せられた。
20年を目指していた訳ではなく、年が積み重なっていつの間にか20年になったという感じだが、この記念誌を手にした人が、こんなにワクワクするような事を続けているんだということ、自分もそこに参加していたということを改めて認識してくれたらうれしい。
今後も今までのように自然に年を重ねていく事と思う。今は皆成長して上手になって大曲をこなすようになったが、来年は20年前のようなまだ室内楽の経験の無い子供達も参加して、皆と一緒に音楽を作り、練習は大変かもしれないけれど最終的には「音楽っていいな!」を感じてくれたらと思う。 
 
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表紙の写真は宏樹庵の近くから見る瀬戸内海。宏二郎撮影

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ふれあいパークでのレッスン風景
 

たびたび上京して合わせの練習をしたりして、いよいよ演奏会が近づいてきました。
宏樹庵にいるときにはニンニクや玉ねぎの植え付けもやりながら個人練習です。
プログラムの原稿も書けました。
こちらに載せておきます。
演奏会にいらっしゃれる人もいらっしゃれない人も読んで音楽を思い浮かべていただけたらと思います。

4つの前奏曲より第1番    

ショスタコーヴィチ(19061975

ショスタコーヴィチは1906年サンクトペテルブルクに生まれた。

9歳の時初めて母親にピアノの手ほどきを受け、191913歳でペテルブルグ音楽院に入学、グラズノフに師事する。1925年音楽院を卒業、卒業制作として交響曲第1番を作曲。作曲だけでなくピアノも堪能でこの後ショパンコンクールにも出場している。作曲家同盟レニングラード支部の運営委員になり次第に作曲家としての礎を築く。しかし、時はスターリン時代。政治のみならず芸術その他あらゆる分野で制約があり、体制からの批判を受けながらも作曲を続ける。主に交響曲(全15曲)や弦楽四重奏曲(全15曲)において優れた作品を残し、それに比べてピアノソナタは2曲しか書いていない。重く暗い作品、或いは反対に故意に大きな音の連続のある作品が多いが、一方でポピュラー音楽も愛し、軽妙な作品も少なからずある。

この前奏曲もその一つで、1933年にピアノのために書かれた24の前奏曲のうち4曲を後にツィガーノフがヴァイオリンとピアノのための曲に編曲した、非常に幻想的な曲だ。

 

フルートとピアノのためのソナタ

      プロコフィエフ(18911953

プロコフィエフはショスタコーヴィチより15歳年上、ロシアのウクライナ地方南部に生まれた。5歳の時もう作曲を始め、9歳でオペラ2曲、12歳でヴァイオリンソナタを書くなど天才的頭角を現す。1904年母に連れられてペテルブルグのグラズノフを訪問、そして音楽院に入学(ショスタコーヴィチが入学する15年前である)リャードフの和声学クラスで学び、後にリムスキーコルサコフのクラスでも学ぶ。次々にオペラや交響曲を作曲し発表する。1914年(23歳)でピアノ科と指揮科修了、卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲を弾きアントン・ルビンシュタイン賞受賞。その年ロンドンでディアギレフに会い、称賛されていろいろ作曲の提案を受ける。

1917年にロシア革命が起きる。ロシアの帝政が崩壊しレーニン率いるポリシェビキが台頭してきて第1次世界大戦からは手を引き、社会主義国家ソ連を形作ってゆく。この内戦は数年続き、死傷者は7001200万人に上ると言われている。(1922年ソビエト社会主義共和国連邦が誕生)

プロコフィエフはそのような状況の中でアメリカ亡命を決心、1918年シベリア鉄道で日本を経由してアメリカに行く。日本には6月から8月までの約2か月間滞在し演奏会も開いている。その後アメリカを拠点として作曲家、ピアニストとして活躍。しかし15年経た1933年望郷の念が高まり帰国。ショスタコーヴィチはずっとソ連にとどまっていたがプロコフィエフは15年間であっても亡命し欧米で活躍していた。この差が二人の作風の違いにつながりそうだ。そしてプロコフィエフが亡くなる1953年にスターリンも亡くなり、以後ショスタコーヴィチの今まで発表できなかった作品にも光が当たるようになる。

1941年第2次世界大戦が勃発。ドイツ軍のレニングラード(=現ペテルブルグ)進撃により他の芸術家とともにプロコフィエフはグルジア地方に疎開。戦争ソナタと呼ばれるピアノソナタ第6番第7番を書く。フルートソナタも戦争のさ中1943年に作曲されている。この初演を聴いたオイストラフがヴァイオリンソナタへの改作を依頼、翌1944年にヴァイオリンソナタ第2番として発表、ピアノパートはそのままでフルートパートに少し手直しがしてあるだけだが、こちらも現在よく演奏される。

1楽章 物憂い雰囲気で始まるソナタ形式

2楽章 軽快なスケルツォ

3楽章 抒情的で美しい

4楽章 躍動感あふれる楽章

 

 

ピアノ三重奏曲   ショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチが1927年に出会って以来、公私ともに親しかった音楽演劇評論家ソレルチンスキーが1942年に急逝した事を受けてこの曲は書かれ、「ソレルチンスキーの思い出」というタイトルが付けられている。

世界大戦中の1944年に書き上げられている。親友の死、また大戦中のスターリン体制のもとでの作曲家という自分の立場をユダヤ人と重ね合わせ、曲全体が深い悲しみに覆われている。ショスタコーヴィチの友人にはユダヤ人が多かったし、オーケストラの団員の中にもユダヤ人がいた。彼らとの接触の中でショスタコーヴィチはユダヤ音楽へ傾倒していったと言われている。ユダヤの音楽空騒ぎの中で、泣かざるを得ない怒り

1楽章 チェロのハーモニクス(笛のようなとても高い音)という「超」超絶技巧の旋律で始まる。こんな冒頭を考え付くとは!!! 正に深い悲しみである

2楽章 スケルツォ

3楽章 ブラームスの交響曲第4番終楽章の冒頭のようにパッサカリアの8小節の和音進行をピアノが受け持ち、チェロとヴァイオリンの哀惜あふれる二重奏をずっとピアノが支え続ける

4楽章 第3楽章から切れ目なしに演奏される。ピアノの連打に乗って墓場の遺骨の上をさまよう男の旋律。そしてその先に現れるのが弦楽四重奏曲第8番でもそっくりそのままの旋律が使われているユダヤの歌。弦楽四重奏曲の楽譜には「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に捧ぐ」と書かれている。5拍子でこれでもかこれでもかと歌われる旋律もユダヤの音楽だろう。そして8小節の和声進行を挟んで墓場の男の旋律で曲を閉じる

 

ピアノ三重奏曲「大公」 

ベートーヴェン(17701827

1789年フランス革命が起き絶対王政が崩れるのだが、ナポレオンが台頭し、当初は外国の干渉から市民階級を守る革命防衛戦争だったのに次第に侵略戦争と化してヨーローッパ中が巻き込まれる。それまで芸術家を保護していた貴族は力を失い、兵士も傭兵ではなく愛国心に満ちた国民兵に取って代わる。ベートーヴェンの活躍する頃は貴族からの年金は無くなり、作曲家は自身で演奏会を開いたり楽譜を出版社に売ったりして生計を立てるようになる。ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ1815年に敗退するまで戦争は続いた。

そんな中1811年にこのピアノ三重奏曲は書かれた。既にベートーヴェンは6曲の交響曲とすべての協奏曲を書き終え最も円熟した時期だった。ルドルフ大公に捧げられているのでこの曲は「大公」と呼ばれる。ルドルフ大公は18歳ベートーヴェンより年下でベートーヴェンの弟子でもあり、貴族からの年金が無くなる時期であったにもかかわらず早世するまでベートーヴェンを援助し続けた。神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世の末っ子で1806年に神聖ローマ帝国は消滅するがオーストリア皇子(大公)の称号を持ち、ピアノも達者でベートーヴェンのヴァイオリンソナタ10番の初演も行っている。

1楽章 ピアノの堂々とした主題で始まりすぐヴァイオリンが引き継ぐ

2楽章 スケルツォ形式 3つの楽器の掛け合いが絶妙

3楽章 アンダンテ カンタービレ 主題と4つの変奏曲

4楽章 ロンド形式 3楽章が静かに終わった後、いきなり楽しく活気に満ちた旋律が始まる

全体に幸福感にあふれており、どうしてこんなにも幸福だったのだろうかと考えさせられる。戦争のさ中であり、この曲の初演では自身がピアノを弾いたがこの頃は音楽家として大切な耳がもうほとんど聞こえなくてあまり上手く行かなかったようだ。

それなのにこの幸福感!!?


初めのショスタコーヴィチの前奏曲とプロコフィエフのソナタを陽子と、ショスタコーヴィチのトリオを石突美奈さん、桜庭茂樹さんと、最後の「大公」を石井啓一郎、桜庭茂樹さんと演奏します。

アンサンブルシリーズ2019表

10月24日(木)午後1時半より岩国西ロータリークラブ主催の癌予防講演と石井啓一郎啓子による演奏会が岩国市立玖珂中学校にて催された。
岩国西ロータリークラブは過去3年間この企画を一年に2校ずつで開催していた。私達が依頼されたのは3年間という契約だったが、やってみると大変好評で、ロータリークラブ内でも高く評価され、継続することが決まった。しかし、一日に2校の調整は大変だったそうで、今年からは1校となった。
初めの30分はご長男を癌で亡くされたロータリークラブ会員のK氏が講演、後半1時間が私達の演奏。今回はブラームスのソナタをメインにサラサーテのいくつかの曲も取り上げた。G線上のアリアは生徒達はどうやら今流行りのテレビドラマ「G線上のあなた」に影響されて知っていたようだ。最後に花束を持ってきてくれた生徒に今日はどの曲が印象に残ったかと聞くと、「カナリア」と答えた。オーケストラの中のヴァイオリンの音は聞いたことがある生徒が何人かいたが、単独の演奏を聴いたことはなくて、ヴァイオリンからあんな音が出るとは意外だったとみえ、「カナリア」を弾きだすと生徒達の中でざわめきが起こり、思わず笑い声も出た。素直な生徒達だった。
全校生徒260人くらい。石井は帰り際に、「もうじき18歳になるんだ。政治はみんなと無関係ではない。みんな、選挙に行けよ。」と話しかけていた。

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