6月30日京都、7月9日宇部、7月20日東京と続いたリサイタルが終わった。
収まりつつあったコロナが参議院選挙後、爆発的に感染者が増えチケットを買っていても来れない人、それでも久しぶりに来た人、人それぞれにとらえ方が違ってどの会場でもまあまあの入場者数だった。お運びいただいた方には心から感謝しています。
モーツァルトのソナタとベートーヴェンのスプリングソナタ、そして小品という聴きやすいプログラム、演奏者にとっては誰でも演奏している曲をどう料理するか、実力の問われるプログラムだった。今回感じたのは石井の弓使いが非常に自由になったこと。弓は長さが決まっているけれど、なんだかその長さを超えて弾いているように思えた。
また、プログラムノートも好評だった。これだけ好き勝手に書けるのも歳を重ねたおかげでしょう。
来れなかった方のためにここに載せておきます。

19世紀から20世紀にかけて活躍した巨匠達の演奏の録音がエジソンの機械の発明のおかげで残されている。瘻管の時代から竹針のSP時代のものから古いものは1903年ヴァイオリニスト ヨアヒムや1904年作曲家グリークのピアノ演奏など。カザルス、イザイ、フーバイ、クライスラーetc. カザルスのバッハの無伴奏組曲全曲は1929年に録音されたものを聴くことができる。100年も前のものとは思えないみずみずしく大胆な演奏スタイルには圧倒される。クライスラーの演奏にも優雅さや洒落、粋だけではない音楽に対する力強い姿勢をふつふつと感じさせられる。発明されて間もない録音機、再生機の性能は見違える様に進化した今日の機械とは比べ物にならない位幼稚で原始的だ。その性能の未熟さ故にそれぞれの巨匠達の強い個性、彼らの生きた時代の生活環境がその演奏を通して生の直接人間の体を通した音の反響として聴こえてくるから不思議だ。

オンラインという言葉に象徴される人間生活の機械化はコロナ禍のだいぶ以前からひたひたと社会全体に進行していたが、コロナが人類に襲いかかって以降は急激に加速し、電力なしでは生存できない究極の生活環境へと国家をあげて突進し始めている。芸術というものを個々の人間が真面目に問い直さなければいけない時代に入ってしまった様だ。血の通った息遣いのある生の人間の活動は失いたくない。100年前の巨匠達の演奏は妙に新鮮だ。

朝の歌       エルガー

産業の発展こそがその国力の唯一の基盤という実利的な考え方で産業革命以後イギリスは邁進して大英帝国を作り上げてきた。美味しいものを食べたり、美しい音楽にひたるのは産業の発展には直接には力にならないと思われてきたせいか、17,18,19世紀のイギリス音楽は不毛の地をさまよっていた。そんな時代を経て突如出現したエルガーは国民的な作曲家として扱われ、彼の作品「威風堂々」はゴットセーブザクインに次いで第二の国歌と言われるに至った。朝の歌は夜の歌と対をなす珠玉の小品である。

モーツァルト

8か国と国境を接してドイツ、スラヴ、マジャール、ラテン、ユダヤの5つの民族が混じりあいながら歴史をつぐんできたオーストリアのウィーンは音楽の都と言われ続けてきた。強力な王様も皇帝もいなかった歴史の中で貴族が勝手勝手に優れた楽師を競って自分の宮廷楽師としてかかえた結果として音楽のあふれる都市になってきたのである。優雅な音楽に様々な民族の情念が奥の方で意味不明に折り重なっているのがウィーンの音楽である。

モーツァルトのロンドの原曲はハフナーセレナーデの4楽章。クライスラーによりピアノとヴァイオリンのための曲に編曲され広く多くの名手達によって演奏される。

モーツァルトのソナタK.3171779年マンハイム・パリ旅行から帰ったザルツブルグで作曲

1楽章 アレグロ モデラート 

2楽章 アンダンティーノ ソステヌート エ カンタービレ 

3楽章 アレグロ

サラサーテ

ケルト人 フェニキア人 ギリシャ人 ローマ人 ゲルマン人 イスラム人 アフリカのムーア人。思いつくだけでもスペインにはこれだけの民族が移り住み、去り。又やって来て何種類もの混血人種が生み出され、散らばって住み着いている国。民謡にあふれているがスペイン民謡として一つにまとめる事は到底出来ない中身を持っている。

アンダルシアのロマンス op.22

アンダルシア地方はスペインの中でも特に異民族が入れ替わり立ち替わり入り混じって渡来定住した地方でアフリカからのムーア人、それにイスラムの影響が特に強い。

バスク奇想曲 op.24

フランスの国境に近いピレネー山脈のふもとのバスク地方定住した人々はスペインの中でも際立って特徴的な民族でスペインの他の地方との類似点は全くなくヨーロッパの中でも同じ言語は見当たらず原始クロマニア人の子孫とか、中には日本由来説もある位謎に包まれた民族である。

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第5番 op.24      ベートーヴェン

和食が海外でも評価され、その味の真髄がどこまで異邦人に理解されているかは別にして国際的に人気が高まっているのは確かである。かのベートーヴェンが繊細な色彩、秘め隠された味を堪能できる和食を習慣として朝昼晩食べて育っていたらあのような作品が次々と生み出されていただろうかと荒唐無稽な想像を敢えてしてみる。答えは即座にひらめく。色彩感の全く無いスープにザウアークラウトにジャガイモでなくてはあの音楽は生まれなかったろう。しかし和食で育った私にはベートーヴェンの音楽を生の体で受けとめて大きな感動を体全体で感じる。それ程の大きさをベートーヴェンの音楽は秘めている。

この曲は通称「スプリングソナタ」と言われているが作曲者自身が付けた名ではない。1楽章の冒頭のメロディの印象から後世の人によって呼ばれるようになった。このメロディは日本人にとっても春らしい響きが感じられる。

1楽章 アレグロ 

2楽章 アダジオ モルト エスプレッシーヴォ

3楽章 アレグロ モルト 

4楽章 アレグロ マ ノン トロッポ


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