5月27日結婚50周年を迎えた。
畑の野菜をたっぷり使ってお料理を作り二人でお祝いした。

大学4年の時に、卒業したら啓一郎さんと結婚したいと両親に話したら猛反対された。まだ若いし、この先どう花が開くのか全く分からない芸術家と一緒になっても捨てられるだけと言われた。私が切羽詰まった顔をしていたのだろう。とうとう啓一郎さんのお父さんが私の両親に、啓一郎はどういう人物なのか、いくつもの箇条書きを添えて話しに来てくれた。それでようやく両親も納得して、1972年、大学を卒業してすぐの5月27日、大手町にあった古いが格調の高い銀行協会の会館で式を挙げた。私は大学院にも行ったので、結婚生活が始まっても啓一郎さんの千葉の実家から毎日学校に通っていた。そのころ、啓一郎さんの両親はもちろん、おばあちゃんやお姉さんも一緒に住んでいた。もちろん私たち二人の食事は私が作るのだが、啓一郎さんはフジテレビとの闘争が始まった日本フィルに入団してしまったので忙しかった。せっかく夕食を作って待っているのに、今日は帰れないと急に連絡があり無駄になって悲しい思いをした事もたびたびあった。
そして、私が大学院を卒業してから二人でミュンヘンに留学した。
そこで子供を授かる。調べてもらって陽性だと言われたのはバイエルンの旗のように真っ青な空の日だった。
ミュンヘンの下宿は、ミュンヘン到着後、新聞に載っていたいくつかの候補のうち最初に電話をかけて見に行ったところだった。住まいは小さな3階建てのマンション(4軒と最上階はオーナーの住まい)で、庭に広い別棟がありグランドピアノが2台置いてあった。好きなように練習ができ、留学生の中では最も恵まれた環境だった。オーナーのご婦人は私の父くらいの年齢で、子供、秀太郎が生まれても、まるで孫ができたように可愛がってくれた。その後、彼女は私たちのミュンヘン滞在中、日本に遊びに行き私の両親と会い、また、私たちが帰国した後も、秀太郎が成人してから一緒に会いに行ったこともある。
日本フィルの地方公演のおかげで、私たち二人も日本各地で演奏会を行うことができた。ミュンヘンから帰国後、次男や女の子も生まれて、演奏活動を続けながらの子育ては忙しかった。
そうして、後に子供たちは楽器製作者、画家、フルーティストとなり、それぞれ良縁を得てみんな仲良く暮らしている。
結婚50年の年月は決して早いとは感じない。70歳を過ぎても時間が早く流れるとは思わない。時は地道に刻々と流れている。いまだに仲良く二人で生活し、演奏もできていることに心より感謝している。


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はまちと鯛のお刺身、さわらの塩焼き。貝汁。そら豆は畑の初物、煮物の竹の子も人参もうちのもの。サラダももちろん畑のもの。