2019年11月

11月24日(日)午後2時より東京都西東京市のひばりが丘公民館にて「散歩がてらのコンサートin東京」が開かれた。
主催は実行委員会で、メンバーは20年程前に散歩がてらのコンサートに出演していて、今はお母さんになっている人達。岩国での散歩がてらのコンサート(ミュージックキャンプの最終日のコンサート)が今年20回目を迎えた事を受けて、しばらく途絶えていた東京での散歩がてらのコンサートを自分たちの子供を中心に再開してみようかと自然発生的に思いを寄せたお母さん達。今年の2月に集まって概要を決め、夏の初めに出演者を募集し、曲目を決め、ホールも取り、10月と11月に1回ずつ石井と私のレッスンを受けて本番に臨んだ。4歳から13歳の子供計10人、大人7人の小規模な発表会でスタート。「きらきら星」「かっこう鳥の歌」など初めてピアノトリオに取り組む子がほとんどで可愛らしい曲が並んだ。晴香、絢香はチェロの菅原さん(彼女も山口で始めたミュージックキャンプの初期のメンバーの一人)の協力を得て「ユーモレスク」に挑んだ。ハイポジションなどの技術的なレベルには達していなかった選曲ではあったが晴香が好きという曲だったのであえて挑戦。本番ではそれなりに聴かせどころもあり、絢香も和音をよく覚えて本番はとても上手に弾けた。子供の本番力に感服。
大人はドボルザークのドゥムキーやピアノ五重奏曲に取り組み、特に五重奏は初めてで今回勉強できてよかったと言っていた。
出演者がそれぞれ家族や友人などを誘ってくれたお陰でお客さんもたくさん来て下さった。中には1992年以来の散歩がてらのコンサートのプログラムを持参して来てくれた人もいて、子供たちがそのプログラムを見て、自分の親がまだ中学生だっ!と驚いていた。
今の子供たちもすぐに中学生になり、そして親となって、それぞれの子供たちと一緒に音楽を楽しむようになればなあと、繋がりに希望を感じた。

散歩がてらのコンサートin東京2019

アンサンブルシリーズ2019表


11月20日(水)石井啓子アンサンブルシリーズが東京文化会館小ホールにて開催された。
1987年に始めたこのコンサート、途中開催できなかった年もあり、今回が30回目となった。 ここまでやってこれたのは聴きに来て下さるお客様があってこそと、深く感謝しています。
子供が3人、その末っ子が9歳になった時、何か自分のやりたい事を始めても良いかなと思った。その頃はまだピアノ三重奏など室内楽を本格的に取り組んでいる演奏家は少なかった。日本フィルの親しいメンバーにお願いして石井と3人で始めたこのコンサート、途中で日本フィル以外のチェリストにお願いした事もあった。でも桜庭氏に出会ってから、初めはステージに彼を立たせる事ができるかどうかわからなかったが、彼の演奏したいという強烈な思いが舞台復帰を可能にして、一緒に演奏出来る様になって、本当に私は幸せだった。共演者が私なんぞで良いのかと思う程、音楽に対して真摯な姿勢の桜庭氏、幸せを感じているだけでは済まされないのだが。今回のショスタコーヴィチ のピアノトリオも、聴いた人はこの曲がこんなに美しい曲とは知らなかったと言っていた。冒頭のチェロのソロ、超超絶技巧のハーモニクスをこれだけ音楽的に悲しみの歌として弾けるチェリストは桜庭氏以外にはいないと私は思っている。
この日は、冒頭にショスタコーヴィチ の前奏曲を陽子と二人で演奏した。これでお客さんの心を一気につかみましたねと終演後感想を述べられた方がいた。その後、プロコフィエフのフルートとピアノのためのソナタ。この曲はフルートという楽器にとっては低い音が多く、音も心地よい和音ばかりではないところを陽子は全部覚えていつものように譜面無しで演奏した。終わった途端ブラボーの声が響いた。続いてショスタコーヴィチ のピアノトリオ。後半はベートーヴェンの大公トリオ。プロコフィエフ25分、ショスタコーヴィチ 28 分、大公35分という大曲続きのプログラムだった。
アンコールを終えると時計はもう9時を回っていた。その後、ホワイエでのお客様との応対もあり、とても遅くなった。
でも、お客様一人一人一人の熱い、そして温かい視線を感じた一夜でした。 

アンサンブルシリーズ30

たびたび上京して合わせの練習をしたりして、いよいよ演奏会が近づいてきました。
宏樹庵にいるときにはニンニクや玉ねぎの植え付けもやりながら個人練習です。
プログラムの原稿も書けました。
こちらに載せておきます。
演奏会にいらっしゃれる人もいらっしゃれない人も読んで音楽を思い浮かべていただけたらと思います。

4つの前奏曲より第1番    

ショスタコーヴィチ(19061975

ショスタコーヴィチは1906年サンクトペテルブルクに生まれた。

9歳の時初めて母親にピアノの手ほどきを受け、191913歳でペテルブルグ音楽院に入学、グラズノフに師事する。1925年音楽院を卒業、卒業制作として交響曲第1番を作曲。作曲だけでなくピアノも堪能でこの後ショパンコンクールにも出場している。作曲家同盟レニングラード支部の運営委員になり次第に作曲家としての礎を築く。しかし、時はスターリン時代。政治のみならず芸術その他あらゆる分野で制約があり、体制からの批判を受けながらも作曲を続ける。主に交響曲(全15曲)や弦楽四重奏曲(全15曲)において優れた作品を残し、それに比べてピアノソナタは2曲しか書いていない。重く暗い作品、或いは反対に故意に大きな音の連続のある作品が多いが、一方でポピュラー音楽も愛し、軽妙な作品も少なからずある。

この前奏曲もその一つで、1933年にピアノのために書かれた24の前奏曲のうち4曲を後にツィガーノフがヴァイオリンとピアノのための曲に編曲した、非常に幻想的な曲だ。

 

フルートとピアノのためのソナタ

      プロコフィエフ(18911953

プロコフィエフはショスタコーヴィチより15歳年上、ロシアのウクライナ地方南部に生まれた。5歳の時もう作曲を始め、9歳でオペラ2曲、12歳でヴァイオリンソナタを書くなど天才的頭角を現す。1904年母に連れられてペテルブルグのグラズノフを訪問、そして音楽院に入学(ショスタコーヴィチが入学する15年前である)リャードフの和声学クラスで学び、後にリムスキーコルサコフのクラスでも学ぶ。次々にオペラや交響曲を作曲し発表する。1914年(23歳)でピアノ科と指揮科修了、卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲を弾きアントン・ルビンシュタイン賞受賞。その年ロンドンでディアギレフに会い、称賛されていろいろ作曲の提案を受ける。

1917年にロシア革命が起きる。ロシアの帝政が崩壊しレーニン率いるポリシェビキが台頭してきて第1次世界大戦からは手を引き、社会主義国家ソ連を形作ってゆく。この内戦は数年続き、死傷者は7001200万人に上ると言われている。(1922年ソビエト社会主義共和国連邦が誕生)

プロコフィエフはそのような状況の中でアメリカ亡命を決心、1918年シベリア鉄道で日本を経由してアメリカに行く。日本には6月から8月までの約2か月間滞在し演奏会も開いている。その後アメリカを拠点として作曲家、ピアニストとして活躍。しかし15年経た1933年望郷の念が高まり帰国。ショスタコーヴィチはずっとソ連にとどまっていたがプロコフィエフは15年間であっても亡命し欧米で活躍していた。この差が二人の作風の違いにつながりそうだ。そしてプロコフィエフが亡くなる1953年にスターリンも亡くなり、以後ショスタコーヴィチの今まで発表できなかった作品にも光が当たるようになる。

1941年第2次世界大戦が勃発。ドイツ軍のレニングラード(=現ペテルブルグ)進撃により他の芸術家とともにプロコフィエフはグルジア地方に疎開。戦争ソナタと呼ばれるピアノソナタ第6番第7番を書く。フルートソナタも戦争のさ中1943年に作曲されている。この初演を聴いたオイストラフがヴァイオリンソナタへの改作を依頼、翌1944年にヴァイオリンソナタ第2番として発表、ピアノパートはそのままでフルートパートに少し手直しがしてあるだけだが、こちらも現在よく演奏される。

1楽章 物憂い雰囲気で始まるソナタ形式

2楽章 軽快なスケルツォ

3楽章 抒情的で美しい

4楽章 躍動感あふれる楽章

 

 

ピアノ三重奏曲   ショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチが1927年に出会って以来、公私ともに親しかった音楽演劇評論家ソレルチンスキーが1942年に急逝した事を受けてこの曲は書かれ、「ソレルチンスキーの思い出」というタイトルが付けられている。

世界大戦中の1944年に書き上げられている。親友の死、また大戦中のスターリン体制のもとでの作曲家という自分の立場をユダヤ人と重ね合わせ、曲全体が深い悲しみに覆われている。ショスタコーヴィチの友人にはユダヤ人が多かったし、オーケストラの団員の中にもユダヤ人がいた。彼らとの接触の中でショスタコーヴィチはユダヤ音楽へ傾倒していったと言われている。ユダヤの音楽空騒ぎの中で、泣かざるを得ない怒り

1楽章 チェロのハーモニクス(笛のようなとても高い音)という「超」超絶技巧の旋律で始まる。こんな冒頭を考え付くとは!!! 正に深い悲しみである

2楽章 スケルツォ

3楽章 ブラームスの交響曲第4番終楽章の冒頭のようにパッサカリアの8小節の和音進行をピアノが受け持ち、チェロとヴァイオリンの哀惜あふれる二重奏をずっとピアノが支え続ける

4楽章 第3楽章から切れ目なしに演奏される。ピアノの連打に乗って墓場の遺骨の上をさまよう男の旋律。そしてその先に現れるのが弦楽四重奏曲第8番でもそっくりそのままの旋律が使われているユダヤの歌。弦楽四重奏曲の楽譜には「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に捧ぐ」と書かれている。5拍子でこれでもかこれでもかと歌われる旋律もユダヤの音楽だろう。そして8小節の和声進行を挟んで墓場の男の旋律で曲を閉じる

 

ピアノ三重奏曲「大公」 

ベートーヴェン(17701827

1789年フランス革命が起き絶対王政が崩れるのだが、ナポレオンが台頭し、当初は外国の干渉から市民階級を守る革命防衛戦争だったのに次第に侵略戦争と化してヨーローッパ中が巻き込まれる。それまで芸術家を保護していた貴族は力を失い、兵士も傭兵ではなく愛国心に満ちた国民兵に取って代わる。ベートーヴェンの活躍する頃は貴族からの年金は無くなり、作曲家は自身で演奏会を開いたり楽譜を出版社に売ったりして生計を立てるようになる。ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ1815年に敗退するまで戦争は続いた。

そんな中1811年にこのピアノ三重奏曲は書かれた。既にベートーヴェンは6曲の交響曲とすべての協奏曲を書き終え最も円熟した時期だった。ルドルフ大公に捧げられているのでこの曲は「大公」と呼ばれる。ルドルフ大公は18歳ベートーヴェンより年下でベートーヴェンの弟子でもあり、貴族からの年金が無くなる時期であったにもかかわらず早世するまでベートーヴェンを援助し続けた。神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世の末っ子で1806年に神聖ローマ帝国は消滅するがオーストリア皇子(大公)の称号を持ち、ピアノも達者でベートーヴェンのヴァイオリンソナタ10番の初演も行っている。

1楽章 ピアノの堂々とした主題で始まりすぐヴァイオリンが引き継ぐ

2楽章 スケルツォ形式 3つの楽器の掛け合いが絶妙

3楽章 アンダンテ カンタービレ 主題と4つの変奏曲

4楽章 ロンド形式 3楽章が静かに終わった後、いきなり楽しく活気に満ちた旋律が始まる

全体に幸福感にあふれており、どうしてこんなにも幸福だったのだろうかと考えさせられる。戦争のさ中であり、この曲の初演では自身がピアノを弾いたがこの頃は音楽家として大切な耳がもうほとんど聞こえなくてあまり上手く行かなかったようだ。

それなのにこの幸福感!!?


初めのショスタコーヴィチの前奏曲とプロコフィエフのソナタを陽子と、ショスタコーヴィチのトリオを石突美奈さん、桜庭茂樹さんと、最後の「大公」を石井啓一郎、桜庭茂樹さんと演奏します。

アンサンブルシリーズ2019表

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