明日、上京して明後日6日からアンサンブルシリーズの練習が始まる。
6日が初めてのドゥムキーの合わせ。もう11月に入っているのに初めてとは、私にとっては遅いスタートだが中身の濃い練習になりますように。ブラームスとマルティヌーも2回ずつ練習していったん帰宅する。
プログラムノートも書き始めた。

ブラームスはドヴォルザークより8歳年上だった。

1833年にドイツのハンブルグで生まれ、父親は市民劇場のコントラバス奏者だった。7歳でピアノを習い始めると上達が早く10歳でステージに上がるほどだった。しかし家が貧しかったのでレストランや居酒屋でピアノを弾き家計を支えなければならなかった。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、ジプシー音楽を吸収したことが創作活動に大きな影響を与えた。二人でヨーゼフ・ヨアヒムに会いに行き、ヨアヒムはブラームスの才能を称賛、ロベルト・シューマンを紹介してくれる。このシューマンとの出会いはブラームスが世に出る決定的な出来事だった。シューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け、「新音楽時報」に劇的な賛辞を載せてその後もブラームスの作品を広めるために重要な役割を果たした。1862年からウィーンに落ち着いたブラームスは作曲に集中し、「ドイツ・レクイエム」「交響曲第1番」「交響曲第2番」などを次々と完成させた。

ドヴォルザークは1841年にプラハの北のネラホゼヴェスに生まれた。家は肉屋と宿屋を営んでいた。6歳の時小学校の校長にヴァイオリンの手ほどきを受け、見る間に上達し、父の宿屋などで演奏するようになるが、肉屋を継がせたかった父親はズロニーチェという町に勉強に行かせる。肉屋の技術習得書を得るためには専門学校でドイツ語を習得する必要があったのだが、この専門学校のドイツ語の先生が教会のオルガニストや楽団の指揮者も務めている人で、ドヴォルザークにヴァイオリンなどの演奏だけでなく和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。そして相変わらず家業を継がせるつもりの父親を先生が説得してドヴォルザークは1857年にプラハのオルガン学校にやっと入学することができた。卒業後、彼はヴィオラ奏者としてオーケストラに所属していた。在学中から作曲もしていたようだが、初めはワーグナーの影響も見られた。1871年に、作曲に多くの時間を充てるためオーケストラを辞め個人レッスン、やがては教会のオルガン奏者として生計を立てた。1874年にオーストリア政府の国家奨学金の審査で交響曲第3番や第4番などが認められ、それまでのオルガン奏者としての給料の何倍もの高額な年収を得ることができた。この国家奨学金と言うのは、1863年に出来た若くて貧しい画家、彫刻家、音楽家たちのための奨学金で、ハプスブルグ家の豊かさを象徴するものだった。その頃チェコはオーストリアの一部だったのでドヴォルザークにも受ける資格があった。奨学金は年ごとに審査を受けるものだが、彼は結局、次々と曲を完成し、5年間奨学金を受け取ることが出来た。1877年に審査に出した「モラヴィア二重唱曲集」がブラームスの目にとまり、ブラームスは出版社ジムロックにドヴォルザークを紹介し、ブラームスとドヴォルザークはお互いの家を訪問するなど親しい交際が始まった。町中で育って有名になったブラームスは、地方生まれのほとんど無名に近い年下のチェコ人に何かいじらしい好意抱いていたのかもしれない。ドヴォルザークはブラームスの作品を注意深く研究することで主題の取り扱いやリズムを一層個性化し、より内面的な構想などを発展させていった。民族的な色彩の濃い弦楽四重奏曲作品34をブラームスに献呈している。ジムロックは1878年にブラームスのピアノ連弾のための「ハンガリー舞曲集」に匹敵するような「スラヴ舞曲集」の作曲を依頼。この依頼に応えて作曲された曲集は絶賛され、ドヴォルザークの名前はヨーロッパ中に広く知れ渡った。ブラームスはドヴォルザークにウィーン移住を勧めたが、彼は迷った末、チェコにとどまる事にした。彼には田舎の空気が必要だった。

スークはプラハ音楽院でドヴォルザークに学んでいる。卒業後、同級生と共にボヘミア四重奏団を結成して第2ヴァイオリンを弾いていた。1922年からは母校プラハ音楽院で教鞭を執りボフスラフ・マルティヌーらを指導した。初期の作品にはドヴォルザークやブラームスの影響が多く見られる。



12月25日(火)午後7時開演 東京文化会館小ホールへ是非お運び下さい。
曲はスークのエレジーに始まり、マルティヌーの1番のフルートソナタ、ブラームスのピアノ三重奏曲作品101、ドヴォルザークのピアノ三重奏曲「ドゥムキー」です。

アンサンブルシリーズ2018表