1972年5月27日、私たちは結婚式を挙げた。
石井は23歳になったばかり、私は22歳。今思えば若かったなと思う。しかし、当時は一緒になりたい一心だった。
私の親は若い音楽家との結婚にはずっと反対していた。そこで石井の父親が結婚を認めてもらおうと、石井の良さをアピールする何か条かの箇条書きを持って私の父の所へ説得に来た。その一つに「病気は禁止しています。」の項があった。石井は結婚してからその言い分を守って歯医者以外一度も病院に行ったことがなかった。

付き合い始めて何年かの間、私は石井がオケマンになるとは思っていなかった。
日本フィルの問題は、降って湧いた事件だった。
1971年、あの頃の時代の流れで日本フィルに労働組合が出来た。
1956年に渡邉暁雄先生が創立し、華々しく演奏活動を始めた日本フィルだったが、オーケストラはお金のかかる集団で、その頃既にフジテレビはオーケストラを切り離して独立採算でやらせようとしていた。声を上げた労働組合を1972年、フジテレビは突然切った。
そこから争議が始まる。
あれだけの演奏をしていたオーケストラを無くしていいのか。聴衆も立ち上がった。その年、芸大を卒業したばかりの石井は、それはおかしいのではないかと、オーケストラの中で演奏したいのではなく、社会問題としての日本フィル闘争に入り込んだ。
それから12年、闘争は続いた。
闘争の中で日本フィルは学んだ。誰のために演奏するのか。様々な階層の中に入り込んでいって聴衆をつかんだ。
クラシックの音楽に触れたことのない人達は、「それがクラシックなのか!」と驚き、喜びを共有するようになった。
1984年、フジテレビは日本フィルとようやく和解した。
それから今年はちょうど30年。
6月22日、四谷の会場で、今までを振り返る記念のパーティが催された。日本フィルを支えてくれた全国の懐かしい顔ぶれが集まった。今の日本フィルは争議など知らない若いメンバーがほとんどだ。彼らはどこを向いているのか。市民と共に歩んできた日本フィルならではの要素。今の日本の閉塞した社会の中で音楽の役割として、このことこそ重要なことだと、若いメンバーも認識して活動するようにと、その頃の皆が、ひしひしと求めているのを感じた。

6月23日、平井日本フィル理事長と渡邉先生のお墓参りに行った。
平井理事長は、今、聴衆とオーケストラの関係を日本の大きな文化活動の面から実感し動いている人の一人だ。