2014年02月

2月11日 ひと月ぶりに石井と宏樹庵に帰ってきた。
検査入院の後 1月21日に頚椎の手術を受けた。
病名は黄色靭帯骨化症。脊髄の後ろ側の背骨を支える靭帯が骨のように硬くなって脊髄を圧迫し下肢などにマヒが起こる病気。
日本フィル在籍当時から腰の痛みがあった。我慢強いのと医者嫌いなのが相まってずっとそのままになっていた。しかし、日本フィルを定年退職する年の2月の九州公演では楽員に荷物を持ってもらうほど悪化していた。
脊柱管狭窄症だと思っていた。本を買って、こういう体操をしてみたらと勧めたが、そんな体操はできるどころではなかった。そこで、しかたなく岩国の医師会病院の整形外科の先生を紹介してもらって行き、MRIを撮ったところ首の骨の異常が見つかった。その先生はすぐに手術をした方が良いと言う。しかし、首の手術だ。ヴァイオリンを弾く身でそんな手術をしても大丈夫なのだろうか。宇部には石井のことをよく知っている医者がたくさんいた。その先生方に相談し、結局宇部にある山大医学部の病院で手術を受けることにした。それを決めたのが昨年8月。手術するには演奏活動がふた月くらい無い時ということで今年の1月まで待った。
手術は首の6番目7番目と背骨の一番上の骨の後ろ側にある突起の部分を切り、骨化している部分を削り取り、後4本のスクリューとブリッジで固定するということだった。手術時間は約3時間と言われた。
9時手術開始。しかし12時を過ぎ、2時近くなってようやく「手術は遅れていますが順調に進んでいるのでもう少しお待ちください。」と連絡があったきり、3時になっても4時になっても終わらなかった。待つ身は気が気ではなかった。悪い方ばかりを考える。
5時10分、ようやく「終わりましたのですぐICUにいらして下さい。」との連絡。飛んでゆく。
もう石井は目が覚めていた。まだお昼ごろと思っていたのに夕方だとわかってびっくりしていた。痛みはなさそうだった。時間がかかったのは、骨が硬くて削ったりするのが大変だったということを後で説明された。
やっとほっとするのも束の間。その後の3日間が一番しんどかった。
首の真後ろを切っているので、上を向いたまま寝ていて、首をちょっとでも動かしてはいけないと言う。人一倍じっとしていられない性格の石井。夜寝ている時でさえ、朝起きてみたら頭が足側の布団の下にあったなどという事も。それなのに動いてはいけない。
2日間は一睡もできず、拷問だと言いストレスで血圧が上り、だんだん幻覚症状が現れた。病室に泊まり込んでいた私が水平に立っているように見えるなどと言い出した。先生に伺うと、大手術の後はそういうことがよく起こるそうだ。
4日目にやっと起き上がることができるようになって、食事も自分で食べられて精神的にも落ち着いてきた。
それからは快復が早かった。夜は30分ずつくらいしか眠れないようだが、歩くこともできて、一週間経つ頃、部屋の掃除までした。
2月10日最後の先生の診察が夕方5時過ぎにあった。
「手術は大成功です。」
石井:手がしびれているのですが・・・
「体のふらつきは改善されているので、徐々に手のしびれもよくなるでしょう。」
11日朝、退院した。
足腰は前よりも良い。首を固定するために装着していたカラーは外しても良いと言われたのでヴァイオリンの練習は今までどおりできる。しかし、手、特に右手の薬指と小指が、手術前はそんなことは全然なかったのに、しびれて自分の手のようではないらしい。弓が思うように持てない。
少しずつ慣れてきてはいるが・・・

散歩に出た。小川のクレソンの生育状態を確かめる。
冷たい風が吹く日だった。以前はそんな日でも手袋なしでも手がとても暖かかった。それなのに今は手が氷のように冷たくなると言う。



私は子供の頃、よく空を飛ぶ夢を見た。
何も持たないで、息を整えればいつでも上手に飛べた。高くも低くも飛べた。羽はないけれどピーターパンのように飛んだ。
大人になってからは飛行機を自分で操縦してみたいと思っていた。
昨年暮、酒井酒造の記念館「臨川館」のお披露目があった時、自衛隊岩国基地の司令官も一緒だった。何の話からそうなったのか覚えていない。とにかく、それではヘリコプターに乗せてあげましょうということになった。

1月7日午前中、岩国市の海上自衛隊岩国基地で初訓練飛行があり、救難飛行艇による救助訓練などが行われた。
訓練に先立って格納庫の前で式典があり、暮にお会いした司令官の訓示などがあった。約700人が寒い風が吹く中、整列していた。
槙本県会議員とお琴の先生と石井と私の4人は導かれて隊員と一緒にヘリコプターに乗り込んだ。3台のヘリコプターが連隊を組んで飛んだ。
お天気はとてもよく、全然揺れなかった。兜島がよく見えた。あちこちであがっている煙突の煙を見て、岩国周辺は結構工業地帯なのだなとも思った。観光ではないので島めぐりとはならなかったが、1時間ほどぐるぐると飛び、そして降りた。

ヘリコプターのほかに格好いい飛行機がいろいろあった。
が、話を聞くとそれらは皆軍用機でそれぞれ危険な任務を負っている。身が引き締まった。




左から3人目から私、お琴の先生、石井、槙本さん






私達の後ろから付いてくるヘリコプター






 

地元の人達は国立岩国病院のことを「国病」と呼んでいた。バス停も「国病前」、踏み切りも「国病踏切」・・・
昨年3月24日に新しく愛宕山に出来た病院に移転し、ここには空っぽになった建物が残されていた。その後解体工事が始まり、病院、研修会館、体育館、看護学校、病院に勤務する人達の家、保育園などすべてが取り壊されて今、整地が進んでいる。これだけの大工事でも岩国が潤うわけではなく、残念ながら入っていたのは広島の企業だった。
毎年桜の季節になると、こんなにも桜の木が多かったのかとびっくりするくらい満開の桜が見事だった。これは残してほしかった。しかし非情にも数本の木を残してあとはすべて切られて掘り返され無くなった。

跡地を何に使うのか誰も知らない。




大きな銀杏の樹も切られてしまった


1年前の病院の建物
 

昨年12月24日、東京文化会館小ホールにて石井啓子アンサンブルシリ-ズが開催された。
今回25回目。始めてから四半世紀に及ぶと思うと感慨が深い。
また今回は9月の準備段階から妹の病状が悪化し、私は鹿児島の病院に付きっ切りで、地元の音楽教室の先生のご好意で夜部屋をお借りして練習させていただいたが充分な時間はなく、切羽詰った状態で迎えた演奏会だった。
林光氏が昨年急逝され、それを悼む意味で前半はピアノ五重奏曲「ラッキードラゴン・クインテット」、ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ、フルートとピアノのためのソナタというプログラムだった。ヴァイオリンに石突美奈、フルートに陽子を起用し、若い人たちはとても頑張ってくれた。特に陽子は難しいリズムの曲を見事に暗譜で吹ききり、盛大な拍手を浴びた。
プログラムには「dem Andenken eines Engels M.Y.」という横文字を入れさせてもらった。ある天使の思い出という意味で、M.Y.は妹米本路子のイニシャル。天使というには少し大きくなりすぎたが、心は天使のようであった。林光と共に妹の追悼の演奏会となった。
後半はドヴォルザークのピアノ五重奏曲。美しく、ろうろうとしたチェロの歌で始まるこの曲は、私の好きな曲の一つだ。風になった妹も聞いていてくれるだろうと心を込めて演奏した。
今、この演奏会のライブ録音のCDの販売注文を受け付けている。ご希望の方は啓&啓倶楽部のメールアドレスまでご連絡ください。

kayishii0410@ybb.ne.jp    (2枚組3000えん)

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