2013年09月

 ピアノ三重奏や弦楽四重奏などの室内楽の楽しさは、一緒に演奏している相手との緊張したやりとりや、重なり合う喜びを感じ、自分だけでは到達できないほどの音楽の高みに行ける事にある。
東京で大人や子供達にもずっとそういう室内楽の指導をしてきた。
1999年に宏樹庵ができ、2000年に岩国でもそれを始めた。
みんないつも岩国にいるわけではないので、5月の連休中だけ全国各地から岩国に集まってきて、集中的に練習し最終日に発表した。その披露演奏会では、自分の音楽を聴衆に押し付けるのではなく、聴いている方も楽しんで下さるようにと、500円だがちゃんと入場料も頂く。石井も、
「うん、その演奏なら700円取れる・・・」
などと言いながら教えている。
その講習会、名付けて「ミュージックキャンプ」

昨年、宇部でもやってほしいとの事で、9月の連休中に開催した。
岩国のミュージックキャンプは各地から集まってくる人たちか宿泊するので、音楽の勉強だけでなく、レッスンが終わった後お酒を飲みながら色々な話題で盛り上がり、バーベキューをしたり、林の中を駆け回ったり、子供も多いので賑やかだ。
でも、宇部の方はほとんど宇部近郊の人達ばかりなので、レッスンを受けに来て帰るというパターンだった。
昨年に引き続き、今年も宇部で開催が決まった時、岩国を経験している一人の人が、宇部でもバーベキューなどをしたいと言い出して準備してくれた。私達は湖畔のユースホステルに泊まり、そこの屋外で、何と彼は篝火を組み立てて、火を燃やした。岩国のような本格的なものではないが充分に雰囲気は出せた。
普通のバーベキューのほか、彼は大きな鳥の丸焼きまで作ってくれた。中にハーブをいっぱい詰め込んで、竹の棒に刺して焼いたそれは、大変豪勢であり、美味しかった。
石井が小学校から中学に至るまで育ったのは、この湖のもう少し向こう側のほとりだった。その育った環境とほとんど同じような景色のユースホステルは、大変古い建物ではあるが、石井は大いに気に入ってしまった。そこの支配人のおばさんは、いつでも自分の家のように使って下さいと言ってくれるので、早速登録し会員になった。ピアノもあるし、これからはここも一つの拠点となりそうだ。

9月16日午後2時からヒストリア宇部で開かれた演奏会には、70名余りのお客さんが集まり、ベートーヴェン、ハイドンのピアノ三重奏曲や、シューベルトの弦楽四重奏曲、弦楽合奏など13のグループの演奏を楽しんだ。



俵田邸で行われたレッスン
家族でベートーヴェンの「大公」に挑戦


今回は弦楽六重奏もあった
下関の人達の初参加


昨年も参加した小学2年生


組み立て式の篝火


立派な鳥の丸焼き


弦楽合奏
芥川也寸志とグリークの二曲


 福岡県田川。
そこに岩村芳日軍(よしあき)氏という人がいる。
元高校の教師で、田川の町を何とか活性化させたいと心から願っていた。
そこに、以前日本フィルを聴いたことがあるという昔の仲間が戻ってきて話がはずんだ。日本フィルは1975年以来毎年九州公演を行っている。
それだ!と直感した岩村氏はすぐに日本フィルの事務所に駆けつけた。しかし田川は小さい町でホールも狭い。赤字が出れば福岡などの大都市に迷惑をかけるだけだ。と日本フィルには断られた。しかし、絶対迷惑はかけないと粘り強く交渉を続け、ついに1990年冬の九州公演に参加することになった。高教組などが一丸となって取り組み、成功させ、翌年、ヴァイオリンのソリストに諏訪内晶子を迎えたコンサートでは1500席のチケットを完売し、足りないほどだった。オーケストラだけでなく、日本フィルのメンバーによる室内楽のコンサートも周辺各地で企画し、私もピアニストとして何度も田川を訪れた。陽子も一緒によんでもらったこともある。
田川という町は昔、三井の炭鉱があり、石炭産業が盛んな時代は中央から様々な人が集まり、文化水準も高かった。今はすっかり小さな町になってしまったが、そういう素地は残っていてコンサートが根付くのにそれほど時間はかからなかった。もちろん岩村氏のもの凄い熱意があってのことだが、彼の頭の中では100年先の田川の町を考えて、今、どうしたら良いか細かく予定を組み立てるくらい構想は膨らんでいた。
しかし、2003年、彼は脳梗塞で倒れた。
マヒが残り、言葉も出なくなってしまった。それでも奥さんや仲間達が彼を支えて日本フィルの取り組みはその後10年も続いた。ソリストに園田高弘を迎え、県内ばかりでなく遠く鹿児島その他からもお客が集まり感動的なコンサートとなったこともあった。
今年2月、ついに最終回となる日本フィルの公演を終えた。
岩村氏は今でも言葉が不自由。

長末愛子さん。彼女は岩村氏の中学の先生だった。田川の隣町の糸田で、岩村氏との関係から日本フィルの室内楽の演奏会を取り組むようになった。しかし、年を重ねるうちに歩行も困難になってしまった。彼女は啓&啓倶楽部の潮風通信の愛読者で、いつか宏樹庵に来たいと願っていた。
日本フィルの最後のコンサートで彼女に会っている石井は、あの体で宏樹庵に来るのはとても無理だろうと言っていた。しかし、宏樹庵に行きたいという一心の願望でリハビリに励み、岩村氏の仲間に励まされて、ついに、9月7日、宏樹庵に来た。
岩村氏を含めた一行は20名でバスを借り切って田川からやって来た。
歩けないと聞いていた私は彼女が自分の力で階段を昇るのを見て大変感動した。
本当に来てくれたんだ!非常な努力で体を直して!

2階で小さなコンサートをした後、1階で宴会になった。
おでんその他の料理は私が用意した。ほろ酔い気分になった頃、皆で合唱したり、オカリナの演奏もあった。
9時過ぎに彼等はホテルに移動し、翌日は岩国市内をゆっくり観光して帰宅したそうだ。

生きていくことは非常な困難を伴うこともあるが、生きていてよかったと思える瞬間があり、すばらしいことだと思った。



ヴァイオリンの伴奏も入って歌声が響く。
左の方で指揮をしているのは82歳のH氏


 8月24日(土)午後2時よりシンフォニア岩国多目的ホールにて石井啓一郎ファミリーコンサートが開催された。出演はヴァイオリン石井啓一郎、フルート石井陽子、ピアノ石井啓子。
2002年から毎年夏に開催されているこのコンサートは今回12回目となるが、土曜日の昼間に開催されたのは初めて。昼間にしてみたのは、高校生以下の子供達は夜間は大人同伴でないと出かけてはいけないことになっていて、昼間の開催を望む声があったからだった。しかし、結局つてがないまま、いつもと同じ販売方法でほとんど大人ばかりの入場者になってしまった。学校関係への周知は意外に難しいと実感した。

いつも同じような曲というアンケートの声があったので今回はクライスラーの「ロンディーノ」から始めた。クライスラーの大変上品な曲なのだが、アンケートを見るかぎり少しとっつきにくかったようだ。
次のベートーヴェンの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第7番」は好評だった。
休憩をはさんで、林光の「フルートとピアノのためのソナタ」。 
林光は1931年に生まれ、昨年急逝した。交響曲、合唱曲、映画音楽など作品は多く、外山雄三と並んで現代日本を代表する作曲家だった。ビキニ環礁でアメリカの水爆実験のため被爆した第5福竜丸の映画音楽を元に書いたピアノ五重奏曲や「原爆小景」などを見ても解かるように、音楽だけに生きたのではなく、反戦運動家としても確固たる考えを持っていた。同じ屋根の下で育った従姉の林リリ子は日本を代表するフルート奏者だったのでフルートの作品も多い。このソナタも林リリ子がニューヨークデビューする時に書かれた曲で、「ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ」を作曲した年から3年しか経っていないのにかなり新しい音やリズムを駆使している。
耳に優しい音楽ではないこの曲を岩国で取り上げるのには勇気が要ったが、説明があったせいかアンケートでは意外に好評だった。
そして「赤とんぼ」と「夕焼け小焼け」で皆ほっとしたところで、またヴァイオリンとピアノのための「神話」というシマノフスキーの曲から「アレトゥーザの泉」。この曲も岩国では滅多に演奏される機会がないと思われるが、水の精と川の精の愛の物語で、技巧的には難しいが美しい曲。
最後はお馴染みの「チゴイネルワイゼン」 アンコールにシマノフスキーと同じポーランドの作曲家、ウィニアフスキーの「マズルカ」を3人で、そしてヴァイオリンのフラジオレットという技法で鳥の鳴き声のように聞こえるお得意の「カナリア」を演奏し、楽しくコンサートを終えた。



 8月1日、陽子とその子供二人と、宏二郎とそのお嫁さん藍ちゃんと私とで東京から兵庫県の豊岡まで出かけた。石井も午前中の会議を終えて夜には私達と合流、久し振りの家族旅行となった。
 豊岡の実行委員会は私達家族が若い頃、毎年演奏会を企画して下さり、子供達は海や川へ連れて行っていただいたり、実行委員長さんのお庭で、そちらの家族と一緒にカレーを作ったり、いろいろ楽しい思い出がいっぱい詰まった所。毎年行っていたので、ある時、秀太郎が小学校4年生くらいだったと思うが、下の弟と妹を連れて子供だけで行ったこともある。その時、新幹線が少し遅れて、京都駅で一番端っこの山陰線まで小さな手を引いて走ったそうだ。まだ携帯電話などもちろん無い時代。
 もう長いこと実行委員の方たちのそれぞれの事情で演奏会もできなくなって、実行委員長さんも亡くなられた。でもその奥様はご健在で、陽子の子供達が、ちょうどその頃の陽子の年頃になったので、久し振りに行ってみることにしたのだった。
 こうのとりを見て、夜は懐かしい面々にお会いした。
皆さん、大切な方が亡くなったりいろいろなことがあって年を重ねてはいたが、思ったよりお元気でうれしかった。

 翌日は岡山から児島というところに行き、晴香と絢香は大太鼓に挑戦。児島の駅で高松行きのアンパンマン列車に遭遇して大喜び。
 3日に宏樹庵に帰った。
 4日は宇部で石井の母の法事があり、晴香たちの従妹に会えて大はしゃぎ。
 5日からは宏樹庵に石井の弟子のDさんとKさんが子連れで泊まりに来たので、子供が9歳を先頭に1歳まで8人。途中で秀太郎が子供を連れて来たり、来年生まれるという夫婦が加わったり、大変賑やかだった。
ご飯も朝から卵12個のオムレツを作ったり、洗濯機は一日中廻っていたり、誰かが泣いていたり、お母さんが怒っていたり・・・
でも流しそうめんや海水浴や川遊びや花火などいろいろやって楽しかった。
今年は錦帯橋のたもとのチケット売場で41度を記録するなど猛烈な暑さが何日も続いた。冷房のない宏樹庵で走り回る子供達の熱気はますますここの温度を上げている感じだったが、特に救急車を呼ぶこともなく、12日に無事その家族達は帰って行った。

 後に残った陽子は、晴香がジンマシンにかかり大変だったが、24日の演奏会に向けて練習を開始、24日は無事、好評のうちに演奏会を終え、翌25日に私と石井と陽子たちは宏樹庵を後にした。

法師蝉がせわしなく鳴いていた。







こうのとりの施設に置かれた私の母の書碑
(私達の演奏会が企画されなくなってだいぶ経ってから、
全く別のつながりから母の書碑が豊岡のあちこちに建てられた。不思議なご縁)


大太鼓に挑戦、二人ともリズム良く叩いていた。





由宇の潮風公園


最後の晩、花火をする前に虫除けのシールを貼ってくれるDさん。
一人一人に「何が楽しかったですか?」
あれ、晴香がいない?


みんなが帰った後にはお料理にも挑戦、冷やし中華のきゅうりを切る。
卵は上手に割れる。


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