7月18日に父が亡くなった。葬儀を終えて皆で家に帰った時、東京にしては珍しいくらい大空全体が真っ赤な夕焼けに染まった。父はあの空の向こうの西方浄土に輝かしく迎えられたと感じた。

  夕焼けて夫の残せし情(こころ)燃ゆ さちこ
  逝きし人大夕焼のさらに奥 啓一郎

9月5日、横浜にあるお墓の前で四十九日の法要と納骨の儀が執り行われた。
今年は猛暑だった。お盆を過ぎても暑さは衰えず、お墓の前という炎天下で高齢の叔父叔母達は大丈夫だろうかと大変心配した。それがなんと、当日の午前中だけ、横浜の空は雲に覆われ、涼しくはなかったものの、傘なしでも耐えられるお天気だった。法要が済んだ午後にはまた晴れて猛暑が戻ったので、皆で、父のご加護だとしみじみ感謝した。

米本の家は元々、今の宏樹庵がある場所にあった。
私の曽祖父は、その頃灘村と呼ばれていたこの辺りの村長で、ここにはたびたび菩提寺である専徳寺の住職さんがお説教に来られて、村の人達の集まる所だった。代々のお墓も近くの山の一角にあったが、戦後、小作人だった人達にずいぶん土地を分け与えて長い年月のうちに行きにくい場所になってしまったので、祖父が蓮華台という海の見える墓地が開発された時、そこを買って、昭和54年に移した。そして安心したように祖父は56年に亡くなった。
しかし、実際には祖父はずっと東京、横浜に住み、仕事をしていた。
父は長男で、兄弟6人全員、今は東京、横浜に住んでいる。
そんな訳で、横浜にもお墓を求め、分骨してある。

10月10日、父をやっと蓮華台のお墓に納骨した。
東京から母と妹達が来た。岩国在住の親戚の者も参列してくれた。
前日と前々日は雨だった。それが、当日の朝から信じられないくらいの快晴で、蓮華台からは広島や四国まで見渡せた。長いこと岩国に住んでおられる専徳寺のご住職様も、こんなに晴れて遠くが見えるのは初めてだとおっしゃっていた。
これも父のお陰だろう。遠くから来る高齢の母が、体調を崩すことなく気持ちよく岩国で過ごせるよう、暑くも寒くもなく最高のお天気にしてくれた。
これからも遠くから私たちを見守ってくれるのだろう。
                                                     合掌



ご住職のお経が響く
ご住職のお経が響く。
一番左が母

海を背に
海を背に母と娘3人