私の実家では昔から1月1日に親族一同が集まっていた。
父が米本の頭領だったからだが、父の兄弟、その子供たち、孫達が、多い時で30人以上来た。
3年前父が亡くなり、叔父叔母達の年齢も高くなり、なかなか集まれなくなった。
昨年からは私の従妹たちや、結婚した子供たちがその子等を連れてやって来る。そしてその連れ合いの親たちも来るようになって、新年会のメンバーは入れ替わった。
すべて私達3姉妹の手作りのおせち料理を囲んで、和気あいあいと賑やかなのは昔からだ。

大人たちが1階で話に花を咲かせている間に、2階ではお書き初めが始まっていた。
挑戦したのは晴香(3歳)と絢香(1歳)。まだ文字も知らない子供を相手に筆を持たせてくれたのは私の妹の路子。彼女は小学校で書道を教えている。しかし、晴香たちはまだ字を知らないのだから・・・
でも、晴香は筆に墨を含ませてお絵かき感覚で何か書くということがとてもおもしろかったようで、何回もまだ書くと言って止めない。真剣に立ち向かっていて、私がおもしろがって写真を撮っていたら気が散るのが嫌だったらしく、写真は撮らないで!と言われてしまった。
路子が、
「今度は横へ行って!」
「はい、ぐるぐるっと!」
などと言うのに合わせて筆を動かす。「ママ」や「パパ」「はる」など何とか読める字になった。「へび」も書いた。
絢香が今度は私も!と筆を取ったら、いきなり自分で勢いよく筆を動かし、自由に書いた字(?)が偶然にとてもおもしろい作品になった。

毎年、元旦はお書き初め大会になるかもしれない。大切に残しておこう。


書初め3
晴香「ううむ、これでいいかな。」
絢香「お姉ちゃん、なかなかやるじゃん。」


絢香「今度は私にやらせて!」

書初め1
晴香の作品

書初め2
絢香の作品


 空はどんよりした雲に覆われていた。山の方は雪かもしれない。水道局の広報車が回ってきて、「水道管が破裂する危険性があるので各家庭で対処して下さい。」と言っていた。

2階の障子を外して外で洗い始めた。
いつも思う。障子の張替えはもっと暖かい時にすればいいのに。
でも、結局何もせず今日まで来て、今年もあと5日という時に切羽詰ってやり始める・・・
宏樹庵の障子は全部で46枚もある。トイレの入り口の小さな障子やここのは張替え不可能だと思える場所のも含めてだが、主だった所の障子は順次張り替えている。今回は2階の8枚。
外で洗ってきれいにはがし、乾かす。

乾くのを待つ間、ガラスふきをした。
表裏、色々な角度からながめながら、特に角はよく磨くのが私のポイント。
磨いているうちに空が映った。
いつの間にか晴れて青空になっていた。

乾いた障子を居間に寝かせて糊をトントンと付ける。
障子紙を角に合わせて置く。この時が一番緊張する。置き直しは効かない。糊が紙に付いてしまう。障子に対してまっすぐ置けたかどうか、これは勘。いいと思ったら障子紙をサーッところげて拡げる。だいたいうまく行く。が、ほんの少し曲がっていて、拡げた最後の所が7ミリしかのりしろがなかったことも1回あった。
2階の障子はこれできれいになった。

翌日、朝は日本全国この冬一番の冷え込みだったようだが、この辺りは高気圧に覆われ晴れて昼間は比較的暖かかった。
畑に出た。
トマトは秋になっても枯れず、この辺りの人々の話題になるほどだった。
この夏の少雨と猛暑のため、どこの家でもトマトやきゅうりは夏のうちに枯れた。それなのにうちのトマトだけがいつまでも青々としていて、どんどん実がなった。大きな樹が少しの時間、日陰を作ってくれていたからだろうか。しかし、この寒さでそのトマトの木もついに青い実をたくさんつけたまま枯れた。
家の中では赤くなるかと思い、その実を採って、あとは根こそぎ引き抜いた。ご苦労様でした。
トウガラシとしし唐ももう処分した。しし唐は辛いのもあったが、ずいぶん食べた。トウガラシはおいしい柚胡椒になった。
来年はここに何を植えようか。
広い畑で玉ねぎに追肥をやりながら思った。


障子貼り1
きれいに紙をはがされた障子

障子貼り2
張り替えられた2階の障子



 外山雄三先生ご夫妻が12月14日に我が家に来られて3泊された。

12月16日午後3時からシンフォニア岩国でベートーヴェンの「第九」の本番、前日15日はそれのリハーサルというスケジュールだった。
前々から決まっていたので、滞在中のお食事は何にしようかということが一つの大きな思案どころだった。
初日は夕方いらしたので夜ご飯は近くのお寿司屋さん。先生方はふだんは八ヶ岳の山麓、標高1800メートルのところに住んでいらっしゃるので新鮮なお魚は珍しく、喜んで下さった。朝は比較的ゆっくりお休みになっているので朝食はかぼちゃのスープやオニオングラタンスープなどのスープを中心に軽め。昼食はお弁当。うちの野菜たちが大活躍した。夜は猪の肉や椎茸などを焼いたり、しし鍋にしたり。最後の晩は太刀魚の塩焼きや芥子レンコンが大好評。
先生は糖尿の気がおありなので塩分など気を使ったが、何んでもとてもおいしそうにモリモリ召し上がってくださったので、こちらとしては作り甲斐があった。

16日の本番は私達も聴きに行った。
オーケストラは広島交響楽団で、若いコンサートマスターだった。
日本フィル以外のオーケストラをあまり聴いたことのない私の耳には、広響の音は何だか少し頼りない感じだった。でも、第4楽章になって合唱が入り、最後の盛り上がりはテンポも速くなって迫力があった。
先生は今年81歳。でもお若いなと思った。
(歯はすべてご自分の歯だそうで、このことにも感服!)

お天気がずっと悪くて、お帰りになる17日でさえ、家の外のどこへもお連れできなかった。しかし、渡邉暁雄先生や林光さんのお話やお料理の話その他諸々のことで話がはずみ、よく笑っていらした。
17日午後3時、今度は八ヶ岳のお宅へ私達が伺うことを約束して、新岩国にお送りした。


外山先生



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