かえる達も
池のほとりの苔を布団代わりに休むかえる達
緑の庭で
緑薫る濡縁で
寛子おば達
叔母達3人 若い!!!

5月15日私の父の姉妹が3人揃って宏樹庵を訪れてくれた。
父は6人兄弟の長男。4年前に90歳を目前にして亡くなってしまったが、その下に妹が3人、弟が2人いる。皆、東京、横浜に住んでいる。父が長男だったので毎年お正月には全員が家族を連れて我が家に集まり、皆仲が良かった。特に、一番下の妹は、叔母なのだけれど私と年が近いせいもあり、また、その一家は特別に子供好きだったので、私の演奏活動が始まって以来、幼かった私の子供たちをたびたび預け、幼稚園の卒園式の日に私がたまたま演奏会にぶつかってしまったりすると、私の代わりに卒園式に出席してもらう程、お世話になった。
今年、一番上の叔母は88歳、2番目が85歳、そしてお世話になった一番下の叔母は78歳!!!
それぞれ入院経験はあるが、今はとても元気で私をびっくりさせた。
宏樹庵を訪れるのは初めてではない。
この家は私の曽祖父が建て、養子に来た祖父は仕事上横浜に住んでいたが、曽祖父の亡くなった後曽祖母の面倒をみるため、たびたびこの家を訪れ、祖母も子供を連れて来ていた。戦争が始まってから祖母は下の女の子二人と一緒にここに疎開していたので、叔母二人はここの小学校、女学校に通ったこともある。女学校に通ったと言っても何か月であとは学徒動員で大竹の工場に回されて仕事をさせられたようだった。昭和20年5月10日、岩国に空襲があった。叔母は警戒警報を聞いて決めていた防空壕に走ったがそこは入ろうとする人でいっぱいで次の防空壕へ走った。空襲が収まって外に出たら一帯は火の海だった。最初に入ろうとした防空壕は全滅だった。自分も真っ黒けのまま、自宅を目指す。黒磯にいた祖母は爆撃の音を聞いて外に出て、下の妹の手を引いて坂を下り、下の道まで行く。帰って来るかもわからない娘をそこで待つ。どのくらいの時間が経ったのだろうか。娘が帰って来た。思わず祖母はそれまでぎゅっと握りしめていた下の妹の手を振り払って駆け寄る。無事だった。奇跡のように。帰って来た。どうしてそこで待っていたのかはわからない。母親の直観で、帰って来るとしたらそこで会えると思ったのだろう。娘は生を得て帰って来た。——―そんな話を今回叔母達は話してくれた。そして、戦争は決してしてはいけないと改めて言うのだった。

そういう思い出のある家なのだ。間取りはすっかり変わってしまったが、大黒柱やその他の所を懐かしそうに見まわしては、あそこはどうだったとか、岩国に住む親戚の話とか、いつも話題にきりがない。この日は啓一郎もいたので、前日叔母達が行ってきた四国の佐田岬の話も盛り上がって夜11時ごろまで話していた。
翌朝、3人を連れてお墓参りに行った。かなり急な坂道なのだが、3人とも歩いて登れてうれしかった。
10時には親戚の者が3人、お土産をたくさん持って会いに来てくれた。12時ごろには親戚の一人が吉香公園の中のレストランにお昼ごはんを食べに連れて行ってくれた。

先程、無事元気に横浜に帰り着いたとの電話があった。
岩国空港を初めて利用して便利さを実感しただろうが、さすがに疲れたと思う。
でも、また来て欲しいと思った。

宇部実行委員会
宇部市の大重で行われた第1回実行委員会

1974年5月11日(土)午後6時半より宇部市渡辺翁記念会館にて石井啓一郎ヴァイオリン演奏会が開かれた。
東京芸術大学を卒業し、この夏ドイツに留学することが決まって、それを応援するために石井啓一郎後援会が主催した演奏会だった。前半はベートーヴェンとブラームスのソナタをピアノ石井啓子と弾き、後半は宇部管弦楽団の伴奏でブランデンブルクの4番とモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を演奏した。

今年はそれから40年という年にあたり、渡辺翁記念会館で大きな演奏会をやってみようと実行委員会が動き出した。
5月12日(月)午後7時より宇部の大重という店で第1回の実行委員会が開かれた。
宇部日報の脇社長、宇部好楽協会の道中氏、玉井氏、宇部市文化創造財団の緒方氏、宇部オケ後援会会長佐藤氏、その他宇部オケのメンバーに石井啓一郎&啓子が加わって話がはずんだ。
結局、日にちは11月7日(金)夜、主催は実行委員会、事務的なことは宇部市文化創造財団で という方向で行くことに決まった。
何とかチケットの販売を600以上にできるよう皆が力を合わせようと言ってくれた。
これからたびたび宇部へ足を運ぶことになると思う。
市民をも巻き込んだ大きなうねりになることを祈っている。

交流会
お刺身は大変美味しかった
全員集合
出演者、同行者そして島の自治会長さん達
カルテット
会場での弦楽四重奏の練習風景

終演後は旅館(小さい島なのに釣り人などのためか古い旅館が何軒かあった)で、自治会長さん達との交流会があり、採れたてのヒラメなどのお刺身は初めて見るような豪勢なお造りだったし、他の魚も大変美味しかった。
学校は高台にあり、柱島の港から住民達が何台かの自家用車で私たちを運んでくれたのだが、登山道のようなものすごく狭い登坂を車で走るので、今にもぶつかりそうで怖かった。学校に到着して、降りるのかと思ったらそこは裏口で、ふつうは当然歩いて行くだろうと思われる校舎の脇を車に乗ったまま通り、正面玄関に着いた。
聞けば、島に警察はなく、シートベルト着用の義務も飲酒運転禁止条例も無いそうだ。島に悪い人はいないので、孫達を連れていったのだが、目に見えない所に行ってしまっても何の心配もしなくていいみたいだった。
古き良き時代の日本だった。

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