父の納骨の儀を執り行った日、宏樹庵に集まってくださった方々に出石から取り寄せた蕎麦をふるまった。
出石は但馬の小京都とも言われる兵庫県北部の古い街で、温泉で知られる城崎と天橋立との中間くらいに位置する。昔はお城があり、お殿様が信州から蕎麦を持ち込み皿そばが有名になった。今は豊岡市に合併された。豊岡市は私たちが子供たちのまだ小さい頃から毎年演奏会で訪れ、またみんなで毎年夏休みになると山口県の祖父母のところに帰る途中に寄ったりしていたので、私たちにとっては第二の故郷のような所。出石にもよく足を伸ばしてお蕎麦をいただき、食べた皿を積み重ねて、お店に張り出してある「横綱」の高さと比べてみて凄いなあと感心したものだった。
それ程懐かしい土地柄なのだが、母の書の師匠である仲田光成先生(1899~2003)が亡くなられた後、先生の故郷 竹野町に先生の記念館が建てられた。竹野町は城崎より少し先の日本海側に位置するが、今は豊岡市になった。思いがけない事だったが、私たちにとって懐かしい所に、母はたびたび書展などの仕事で訪れるようになった。
そんな訳で、納骨の折に出石の蕎麦を取り寄せたのだったが、その時言われたのは、この辺りではうどん文化が盛んで蕎麦はあまりないとの事。そういえば讃岐うどんなどのうどん屋さんやラーメン屋さんはあってもお蕎麦屋さんは見かけない。

でも酒好きにはやはり蕎麦だと思う。
時代劇には蕎麦を食べる場面が多い。
知り合いのK氏によると、江戸では魚介類を使った寿司が発展し、豊富な魚介の種類そして調理法が編み出されたが、蕎麦の組み合わせとしては海老や穴子の天ぷらくらいで非常にシンプルだった。それは一つに、蕎麦は庶民の食べ物で安く早く食べるものだったからと言う。
勝臨太郎の見初めた女の人が、勝が蕎麦を食べたいと申し出ると即座に蕎麦を打って出す。あれがやってみたい。
一応、宏樹庵には蕎麦打ちの道具は揃えてあって本も買った。でも本を見ながらやってみてもなかなかうまくいかない。2011年は一年間で蕎麦打ちをマスターして、宏樹庵に住むようになったら、一人で蕎麦が打てるようになりたい。
蕎麦好きの人、この指止まれ!



宏樹庵にある蕎麦打ちの道具


 宏二郎展が横浜市青葉区のたまプラーザで11月25日から12月1日まで開かれている。
毎年秋に開催されるここでの個展は今回で5回目。
青い色を主調にした夜明けの湖の絵を中心に、いつもの影、空の絵など24点が並んでいる。知り合いの人たちのほかに、ここはデパートなので買い物に来た人がふらりと立ち寄ったり、このギャラリーにいつも来る人が来たり、人数は少ないが、来た人の中には、何かがその人の琴線に触れたのか、涙まで見せる人もいたとか。世の中の喧騒をよそに、ここの空間だけは静まり返っている。

宏二郎は最近悩んでいる。
生活のためには絵が売れなければならないし、売れる絵と自分が本当に描きたい絵とは必ずしも一致しないと思う。
いつまでも親の援助のもとでは描きたくないともずっと思っていたらしい。
ついに、この12月初めに独立することになった。
東京小平の今の家の近くではあるが、一軒家を借りて自立すると言う。働いて稼ぐ当てはまだ見つかっていない。蓄えもあまり無い中で見切り発車的に決めた。
死ぬようなことはないだろうが、自分が本当に描きたい絵を描いてほしいと願っている親としては少々不安。でも口出しはすまい。

枇杷の花がたくさん咲いている。
花としては特に美しくはないが、この花は自分がやがておいしい実になることを知っているのだろう。目立たないのに、何か自信ありげだ。
宏二郎も今はこの花のように目立たないが、いつの日か枇杷の実のようにたくさん熟れて、みんなを喜ばすことができますように。

    わが刻を今日はわが持つ枇杷の花




枇杷の花





お天気が良かったので吉香公園に散歩に行った。
吉香公園というのは岩国藩主吉川家や家老などの住居跡を一時岩国高校が所有し、その移転ののち、公園に整備された所。初代藩主吉川広家は毛利元就の孫で、広家の弟の小早川とともに毛利の両川と言われ、地元の繁栄に力を尽くした。その五家老の一人に香川正恒という人がいて、藩主をよく助けたのだろう。吉香公園の名前もその吉川と香川から来ているそうだ。家老とお殿様の名前をつなげるのは珍しい。

新聞に「旧吉川家門長屋崩れる」との記事が載っていたので見に行った。
それは錦帯橋を渡ってすぐの所に、香川家長屋門と並んで建っている家だった。それは、とても吉川家の物だったとは思えない。入母屋造り、本瓦ぶきの門長屋と言っても、本当にボロ家で、梁が見える程屋根は崩れ、横の方から見ても無残な姿だった。隣りの香川家長屋門は同じ時期(1693年)に建てられたものなのに県指定有形文化財に指定されていて、立派な当時の構えを保っている。何故、家老の家の方が立派なのか不思議に思った。
吉川資料館の館長さんにお話しを伺ってやっと納得した。その家は吉川家の物と言っても石見から来た吉川の物で、戦前から誰かに貸して長屋として使われていたのだが、雨漏りし始めて誰も住む者がいなくなり、1997年の市の調査で「市指定文化財の価値は十分にある」とのことで半分は市が購入。しかし、あと半分は所有者が全然相続しておらず、その時点で手続きを必要とする人が37人にものぼり、中には外国に行った人もいて、相続権が引き継げなかったそうだ。裁判所に訴えて、財産放棄の仮手続きなど踏めば引き継げなかったこともなかっただろうが、市がそこまで本気ではなかったのだろう。そのままずるずると放っておかれ、11月1日午後、突然大きな音とともに崩れたと言う。
 今日も観光客がたくさん通っていた。その影に、相続権を引き継いでこなかったばかりに無残に崩れ去る家があった。
結局、住んでいた人に家に対する愛着がなかったのだろう。宏樹庵はその家に比べたら明治の終わりに建った家なので新しいが、初めに見た時はもうだいぶ痛んでいてどうしようかと思った。でも残そうという気持ちが働いて、今のような家になった。このような家は新たには作れない。残して良かった。大切に次の世代まで残そう。


崩れた門長屋3
崩れた吉川家門長屋

崩れた門長屋
崩れた家の隣は立派な香川家の長屋門

香川家
香川家長屋門正面


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