3月7日前からお願いしていた藤重貞子さんによる岩国寿司講習会が黒磯自治会館で行われた。

藤重貞子さんは宏樹庵のお隣りの家の私たちが何かあるごとに料理長を務めて下さるお料理好きな方。岩国寿司も二十歳の時から作っていると言う。もう81歳なので私たちが自分たちで作れるようにしておかなければと思い、引っ越してきた藍ちゃんが幼稚園の園長先生からお寿司の木枠を頂いたこともあって、お願いした。

岩国寿司は岩国藩主の吉川広家が合戦のために献上させた保存食が庶民に広がって、今では岩国の郷土料理として定着、私の祖母の家にも大きな木枠があって小さかった私はお寿司を詰めたら上に乗って重石の役目をしていた。いっぺんに3升ものお米を使うので大勢親戚などが集まる時に作っていた。木枠は大小あり、藍ちゃんが頂いたのは1升用だった。家々で少しずつ趣が違い、岩国特産の蓮は使うが藤重さんのはその蓮が見えないように置いてあった。酢でしめた魚を使う家もあるが、藤重さんのは魚屋さんに頼んだおぼろ。ヒラメの身をすりつぶしてきれいな赤い色をしている。岩国寿司講習会1
まず炊き立てのご飯3升を木おけに入れ、素早くお酢をかける
岩国寿司講習会2
酢飯が冷えるまでに上に乗せる具材をみんなで用意
岩国寿司講習会3
青味の葉は今回はうちの畑の春菊
岩国寿司講習会4
蓮は湯がいて酢につけておく
岩国寿司講習会5
錦糸卵。これがきれいに焼くのが難しい
岩国寿司講習会6
藍ちゃんも果敢に挑戦
岩国寿司講習会7
いよいよ木枠に詰め始める。まずチシャを敷き詰めた上に酢飯を敷く
岩国寿司講習会8
その上に蓮などを順次乗せていく
岩国寿司講習会9
おぼろも乗せたら最後は錦糸卵
岩国寿司講習会10

その上にまたチシャを敷き詰める
岩国寿司講習会11
そしてまた酢飯を乗せる。その繰り返しで何段にもなるサンドイッチ状の押し寿司が出来る
岩国寿司講習会12
藍ちゃんも自分の木枠に作っていく
岩国寿司講習会13
一番上の段も完成
岩国寿司講習会14
重石を乗せて3時間くらい寝かせる
岩国寿司講習会15
木枠を外す
岩国寿司講習会16
専用の物差しを使いながら崩れないように慎重に切る。包丁も専用のもの。
岩国寿司講習会17
藍ちゃんのは木枠の面積が小さかったので4段にもなった
岩国寿司講習会18
初めてにもかかわらず上手に切れた
岩国寿司講習会19
いただきます!とっても美味しかったです!



















2月23日(土)午前11時から防府市向島保育園にて恒例の演奏会が開かれた。
石井の両親は二人とも向島出身で石井も幼い頃ここで過ごした時期もあった。ここの住職に石井の父の葬儀をお願いしたところ、見事なオラトリオのようなお経で皆が感心した。そんなご縁でこの保育園で演奏会が始まり、園長である住職にもいつも歌ってもらって今回22回目。昨年のヴァイオリンの音を覚えている人?と石井が問うとはぁ~い!とたくさんの手が上がった。
フォスターの故郷の人々やサラサーテのサパテアードなど何曲が演奏した後、子供たちの和楽器による合奏もあった。今年はそうらん節。子供たちは本物の大きな太鼓や小太鼓を元気に打っていた。

午後は山口市に移動してさやま保育園にて演奏会。
ここにも園舎が新しくなってから毎年来ている。木造りのホールがあって大変音響が良い。4歳や5歳という男の子が前列を陣取って最後まで目をきらきらさせて聴いていた。
大きなホールで開いた私たちの演奏会を小学生の時に聴いたという女の子が、今年保母さんになってこの保育園に来たそうで、歴史を感じた。先生方も情熱のある方々で次からは少し演奏会のやり方を変えてまた続きそうだ。

52595803_242354993290908_6916093181419323392_n[1]

52945541_2203618636554527_6048304488190574592_n[1]
向島保育園での演奏会。毎回園長先生も歌う。87歳だそうです。


お雛様を飾った。
戦中、岩国に疎開していた叔母達が横浜に戻る時までに、祖父が叔母達のために買っておいてくれたそうで、祖父は戦後の闇市で手に入れたと言う。

祖父は子供のいなかった米本家に取り子取り嫁で養子に入ったのだが、勤め先(住友銀行)の関係で岩国には住まずすっと東京、横浜で暮らしていた。父は大正9年に生まれた。その後5人の兄弟姉妹が生まれ、、叔母は祖母に連れられて時々岩国に帰ったりはしたそうだが、ずっと東京近郊育ちだった。戦争が始まると祖母と二人の叔母と一人の叔父は岩国に疎開し、昭和23年までこちらにいた。
父は海軍で呉からパラオ方面に出兵した。岩国の家の近所の人たちが寄せ書きをしてくれた日本の旗を肌身離さず、戦地で戦った。と言っても父は主計局だったので実際に鉄砲を持ってアメリカ兵とやり合ったわけではないようだが、ほとんどの戦友が戦死した中、奇跡的に助かって帰国した。
東京に残された家族は家や財産をすべて焼かれ命からがら横浜に居を構えた。帰国した父は昭和23年に母と結婚し、翌年24年に私が生まれ、3歳までその横浜の家で、叔母達がいる大家族に囲まれて過ごした。中学生だった叔母は私を殊のほか可愛がってくれた。季節になれば祖父が買ったお雛様も飾られていたに違いないと思うが、残念ながら私の記憶にはない。

祖父母の晩年は私の両親が東京の家に引き取り、横浜の家を片付けた時にそのお雛様は大切に東京の家に持って来られた。しかしずっと押入れの奥にしまったままだった。私が岩国に住むようになって、そういえば古いお雛様があるという話になって、そのお雛様は岩国に引っ越してきた。
戦争のため、止むに止まれず手放した大切なお雛様だったのだろう。とても古い物で、造りも、刀はちゃんと鞘から抜けてピカピカな刃があるなど、大変精巧に出来ている。お顔の表情も豊かで、誰一人同じではない。

宏樹庵のお雛様となった。

宏樹庵の元になった家を建てた私の曽祖父、米本靖は昭和7年に灘村村議会全会一致で村長に選ばれ、4年間在任した。その間、東洋紡績株式会社を誘致し、海面を埋め立て、湾岸整備、道路の新設、中洋小学校の設立など、産業、教育、交通、運輸など各方面で著しい発展に寄与した。
惜しくも戦前に亡くなり、曾祖母だけが戦後まで残って一人でこの家を守っていた。曾祖母が亡くなった後、親戚の者がここを守ってくれていたが、それも叶わなくなり、しばらく空き家だったところを私たち二人が見に来た。石井は竹やぶを通って入る道が一目で好きになり、すぐにここに住もうと決めた。でもその頃はまだ日本フィルで演奏に、運営に忙しかったので岩国にすぐ住むことは出来なかった。でもすぐに改築しないと使い物にならないと建築士さんが言った。そこで1999年平成11年に出来上がったのが宏樹庵だ。
しばらく住む人のいなかった家に私が帰ってきて近所の人たちは喜んだ。近所の人たちは皆、私の曾祖母の事をよく知っていて、叔母とも庭でまりつきをして一緒に遊んだという人もいた。

そこに引っ越してきたお雛様。今後もどうぞよろしく見守って下さいますように。

おひなさま

お内裏様


↑このページのトップヘ